プレイバック:「アウトサイドの隣人たち」

2015年から続く、アウトサイダー・キュレーター櫛野展正による連載「アウトサイドの隣人たち」。美術の「正史」から外れた表現活動を行う多数のアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫ってきた。連載70回を超えたこの節目に、とくに印象的な作家たちをプレイバックする。

文=櫛野展正

 2015年の年末から始まった本連載「アウトサイドの隣人たち」が、70回を突破した。気づけば連載開始からすでに8年が経過しており、ウェブ版「美術手帖」では最長連載になっているようだ。そこで今回は、これまで執筆してきた記事のなかからとくに印象的な人たちを改めてご紹介したい。

ガタロさん:描くのは掃除道具

ガタロさん

 1949年生まれのガタロさんは、広島市中心部にある市営基町アパート1階のショッピングセンターで、たったひとりの清掃員として35年以上に渡って清掃の仕事を続けてきた。働き始めた頃は、仕事の大変さや体のしんどさを理由に何度も辞めることを考えていたという。しかし、薄暗い掃除道具置き場で目の前にあった掃除道具を眺めているうちに、ガタロさんのこころは少しずつ変化していく。自分に懐いてくる知的障害のあるホームレスの青年や懸命に働いてすり減ったモップや雑巾など愚直に汚れを落とし黙々と働く掃除道具を愛おしく感じるようになり、あるときから絵の題材として描くようになった。

 広島の公募展にはいくら出展しても評価されなかった。それならと自ら線路脇や公園に勝手に作品を並べて「野晒し展(のざらしてん)」を何度も開催し、夜は絵の番をしながら野宿をした。ホームレスの青年と2人で拾い集めた軍手で不気味な5000体もの「軍手人形」を制作し、夜明け前にばらまき、「真夏の夜のミステリー」としてテレビや新聞で騒がれたこともある。

 転機が訪れたのは、63歳のとき。テレビ番組に取り上げられたことで、家族関係に悩んでいる人や障害を抱えている人など生きづらさを抱えている人たちが全国各地から連日ガタロさんの元を訪れるようになった。退職直後は「生産的なことには一切かかわらず、静かに暮らしたい」と述べていたが、広島で新作の展覧会を開催するなど、変わらず絵を描く暮らしを続けている。

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山本美里さん:隠された母親たちに光を

『透明人間 -Invisible Mom-』より

 1980年生まれの山本美里さんは、2008年、妊娠中に先天性サイトメガロウイルス感染症に罹患した第3子の瑞樹(みずき)くんが障害を持って生まれたことで、「医療的ケア」を必要とする子の親となった。脳の疾患により、呼吸不全に陥ってしまった場合は、気管切開部に空気を送り込むための医療機器であるアンビューバッグを使用することになるが、その器具の使用は東京都では看護師が行う医療行為として認められていないため、山本さんは「万が一」のときに備えて、瑞樹くんが特別支援学校の小学部に入学したときから週4日間、1日約6時間の付き添いを続けてきた。

 2017年からは京都芸術大学通信教育部美術科写真コースへ進学し、息子に付き添う自身の姿を被写体にしたセルフポートレートの制作を開始。それらを2021年11月に『透明人間 Invisible Mom』として自費出版したところ大きな話題となったが、さらに本記事が追い風となり、今年同名の単著を刊行するまでに至った。

 タイトルの「透明人間」が照射しているのは、「医療ケア児の母親」として週のほとんどを特別支援学校の校内で待機していた自身の姿だけでなく、無償のケア労働を強いられている世の中のすべての女性たちだ。ブラックユーモアあふれる写真と言葉の数々が、たくさんの人の胸にも突き刺さることだろう。

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磯野健一さん:ハリボテの城の城主

磯野健一さん

 1936年生まれの磯野健一さんは、40歳ごろ、父親が創業した理容室を引き継いだことを機に、廃材などを使って自分なりに店舗の改装を始めた。余った建築資材を保管していた屋根裏の倉庫を増築していくうちに、やがて天守閣の築城を構想するようになる。当初は、自宅の屋上に3層の天守閣を築城したが、目立たなかったためジャッキアップで2層を付け足し、5層の天守閣とした。ブリキやベニア板など安価な素材を駆使した総工費5万円の手づくりの城は「小阪城」として街の名所となっている。

 さらに外観だけでは飽き足らず、住宅の内装も千畳敷の大広間の絵をだまし絵風に描いた部屋をつくったり、金箔ではなく金の折り紙300枚を使った「黄金の茶室」を制作したりと独学で改築を続けた。86歳を迎えた2022年2月に理容室は廃業したものの、現在でも室内に改装を施すなど、自分なりの造作を楽しんでいる。

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国谷和成さん:紙を折り続ける日々

作品と並ぶ、国谷和成・みよ子夫妻

 1943年生まれの国谷和成さんは、47歳ごろまで漁師として働いたあと、滋賀や富山の会社に転職し定年まで勤務した。休日に帰省した際、妻・みよ子さんが折り紙の「ブロック折り」を楽しむ姿を眺めているうちに一念発起し、56歳から小鳥などの制作を始めた。やがて既製品ではなく、オリジナルの作品制作を志すようになり、魚や漁船など漁師の経験を活かした作品も数多く制作している。

 これまでつくった作品は300体を超えているが、現在も、みよ子さんが紙を折り、和成さんが設計と組み立てを担当して制作を続けている。倉庫にも収納できなくなった作品は、他の部屋にも侵食を続けており、その様子は、家中を闊歩し自由に飛び回る作品たちのなかに、国谷夫妻が居候しているかのようにも思える。

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稲田泰樹さん:現代の「鯰絵」として

稲田泰樹さん

 1949年生まれの稲田泰樹さんは、72年から大手電機メーカーへ就職し、エアコンの製造部技術担当として静岡県富士市の富士工場へ配属になった。95年からはタイの首都バンコクで駐在員を命じられ、駐在員生活の誘惑に負けず自らを律するために、静物画のスケッチを自室で始めた。退職後に、趣味で描いていたスケッチが褒められたことを機に、自らが暮らす街や東京の街を巨大生物が襲う様子を描いた「クライシスシリーズ」と名付けた絵画を67歳から独学で描き始めている。モデルとなるエビや蟹は細部まで観察しながら描き、作品が完成したあとは妻と食すことで供養にかえることもあるという。

 緻密に描かれた俯瞰図は大好きな画家・山口晃の影響を受けたほか、長年仕事で製造整備の立体図面を描いてきた経験によるところが大きいようだ。

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田口Bossさん:自分のために描く日々

田口Bossさん Photo by Maki Taguchi

 1945年生まれの田口Bossさんは、1992年に夫と共に熊本市内で絵本店を開業した。96年には、店内でヨーロッパの玩具の取り扱いも始め、翌年からは店舗の一角で「何も教えない」ことをコンセプトに掲げた幼児教室も開講し、そのときからプレイリーダーとして「Boss(ボッス)」と名乗り始めた。ところが、2016年4月の熊本地震により自宅や店舗が被災。19年9月からは、これまで子育てなどで断念してきた絵を本格的に描いていくことを決意し、現在も絵画制作に没頭する日々を過ごしている。

 専門的に美術を学んだ経験はないが、現在も毎日絵を描き続けており、細胞のようなモチーフから平和や永遠をイメージした丸型モチーフまで、誰に見せるわけでもなく日々多彩な作品を生み出している。6年間で描いた色鉛筆画は300点を超えており、作品は日々進化を続けており、その様子は彼女のSNSで窺い知ることができる。

 22年からはニューヨークの老舗ギャラリーと契約を結び、同年冬には熊本市現代美術館の企画展でも作品が紹介された。さらに今年1月からは、Bossさんの絵を描く姿に触発され、夫も色鉛筆を手にとって絵を描くようになった。

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本田照男さん:自己救済としての表現

本田照男さん

 1946年生まれの本田照男さんは、在日韓国人2世であることを理由に職を失うなど不当な差別を受けてきた。1969年には、沼津市内で「焼肉ペテコ 本田苑」を独立開業。実弟と妻と3人で店を経営するようになるが、妻が交通事故に遭い、瀕死の重傷を負ったことを機に50代後半で離婚。66歳のときには、弟が心不全で突然他界し、2013年には店舗も閉店。

 転機となったのは、60歳になったある日の夜に、ラジオからバッハの『マタイ受難曲』が流れてきた際、自動筆記により初めて絵を描いたこと。その絵が知人に褒められたことで、絵画制作を中心とした暮らしを送るようになる。

 主な題材にしているのは、小さい頃に遊んだ生まれ育った西伊豆の原風景で、「夜中に絵を描いていると1年に1〜2回ほど、ピカソやベートーヴェンなど先達の人たちが自分に語りかけてくれる瞬間がある」と語る。アトリエと化した焼肉店は足の踏み場もないくらいの膨大な作品や画集が散乱しており、現在も日夜制作を続けている。

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