「医ケア」(医療的ケアの略称)という言葉が出来てから、
社会における我々の認知度は上がりましたとおっしゃいますけど、
本当にそうなのでしょうか。
本当に認知度を上げたいのなら
もうそろそろ内輪だけで盛り上がるのは終わりにしませんか?
(東京都41歳Y.M)
新聞の投書欄を模した批判的な言葉の隣には、「医ケア児」と呼ばれる重い障害のある子供とその母親らしき人物が家具大手の「IKEA」店舗前で撮影したセルフポートレートが掲載されている。思わず、吹き出してしまった。長く障害のある人たちのサポートを続けている僕の心に、この言葉や写真のブラックジョークが無数の矢となって突き刺さっていく。いつの間にか、ページをめくる手が止まらなくなっていた。本作が収録された写真集『透明人間 -Invisible Mom-』は自費出版ながら、現在までに800冊以上も売れるなど話題を集めている。
作者の山本美里さんは、1980年に東京都府中市で2人姉弟の長女として生まれた。4歳のときに両親が離婚。母親がフルタイムで働いている間は、近所に住む祖母や伯父母に面倒を見てもらうことが多かったようだ。中学校へ上がると、一部の人たちが学校を仕切っている雰囲気に馴染むことができず、母親が出社した後でズル休みをすることもあったという。
「地元の郷土芸能である『府中囃子』の部活に入っていたんですが、粋がったり圧力をかけたりするような人が多くて、それに屈している自分も嫌になり、2年の夏で退部しました。学校や親には言えないことがあっても、植物の世話をしていると癒されるんです。だから、小さい頃は花屋さんになりたかったですね」。
当時、山本さんの周囲には、自身がひとり親家庭であることを公言できないような空気が漂っており、山本さんは日に日に「地元に居たくない」という意識を強めていった。その思いは、高校1年生のときにドイツから来た交換留学生と仲良くなったことで、一気に加速していく。高校3年生の夏には1年間アメリカへ留学し、帰国後に今度は語学学校へ通うため、半年間イギリスに渡った。
「留学経験を活かした仕事に就きたいと思い、21歳からは外国語専門学校へ2年間通いました。環境問題に取り組んでいるNGO団体などでボランティア活動をしていましたが、就職氷河期だったこともあって、高校のときからバイトをしていた近所のコンビニへ就職したんです」。
正社員として働き始めたが、過酷な労働環境に耐えきれず1年で退職し、雑貨店の問屋の仕事に転職し、子育てをしながら5年ほど働いた。そんな山本さんに突然転機が訪れる。
「現在4児の母なんですけけど、第3子の妊娠8ヶ月のとき、生まれてくる子どもが先天性サイトメガロウイルス感染症に罹患していたことがわかったんです。『障害の程度は生まれてみないと分からないけど、それなりの障害です』と告げられました。これまで障害のある人といえば、街で見かける人ぐらいしか想像できなかったけど、生まれた瞬間から、それを一気に超えてきましたね」。
山本さんは、2008年に次男の瑞樹(みずき)くんを出産。瑞樹くんには、日常的に医療的ケアを必要とする重い障害があった。瑞樹くんは、脳の疾患により、呼吸不全に陥ってしまうことがあるため、気管切開部に空気を送り込むための医療機器であるアンビューバッグを使用することになるが、その機具の使用は東京都では看護師が行う医療行為として認められていないため、山本さんは「万が一」のときに備えて、瑞樹くんが特別支援学校の小学部に入学したときから学校への付き添いを続けてきた。付き添いができなければ、教員が週3回自宅を訪問して授業を行う「訪問学級」しか術がなかったからだ。山本さんによれば、これまで週4日、1日約6時間を校内で過ごしてきたという。いっぽうで求められたのは、子供の主体性を引き出すために、保護者は存在感を消し、黒子に徹するということだった。
「学校で何もすることがないんですよね。付き添いしていない周囲のお母さんたちがそのうち仕事を始めたりするのをSNSで目にするようになって、初めは羨ましいなと思っていたんですけど、そう思うことって自分にとって前向きなのかと自問するようになっちゃって」。
「何か社会とつながりたい」と翌月からは自宅で保護猫を預かるボランティアを開始し、Instagramで里親を探すために、初めてカメラを買って猫の写真を撮り始めた。やがて写真への興味が芽生え、2017年4月からは京都芸術大学通信教育部美術科写真コースへ進学。セルフポートレートのきっかけは、授業の課題で写真家のリサーチをしていたとき、女流写真家ジョー・スペンスの存在を知ったことだ。1982年に乳癌と診断されたジョー・スペンスは、自らを被写体に撮影し、それを見ることで現実を受け入れていったという。彼女の一連のプロジェクトは、現在ではフォトセラピーとして知られている。
「瑞樹が小学部1年生のとき、私は付き添いが嫌すぎて、目の下が痙攣するようになったんです。気分の浮き沈みが激しくなって、精神科に通院したところ、適応障害だと診断されました。『ストレスを取り除くために、しばらく学校に行かない方がいいです』と告げられたんですけど、私が行かないってことは、家のベッドに瑞樹が寝てるってことじゃないですか。その姿を見たら、また学校のことを思い出しちゃうんです。幸いにして、1年ぐらいで症状は治ったんですけど、このときの経験があったから、フォトセラピーが自分のなかでどういう作用をもたらすのか関心があったんです」。
当初は卒業制作に向けて医療的ケア児をテーマに扱おうと思っていた。しかし、担当教官から「障害のあるお子さんを取り上げるよりも、あなたは自分の置かれている状況に不満を持っているから、あなた自身を題材にした方が多くの人の心に届くのでは」と助言を得たことが、フォトセラピーの思想とリンクし、現在のようなセルフポートレートを撮り始めたというわけだ。
「文字にして浄化させるというんでしょうか、子供の頃から学校や友だちに言えないことを書き残しておく癖があるんです。いまでも日頃感じたことを携帯電話のメモ帳に残すようにしているんです。写真だけでは医療的ケア児や付き添いの現状を伝えるのは難しいと思って、初めから文章も添えようと考えていました」。
卒業制作として撮りためた写真を『ここにいるよ -禁錮十二年-』として発表したところ、最高位である学長賞を受賞。山本さんが「ここにいるよ」と訴えたいのは、同じように他の学校で付き添いをしているお母さんたちの存在だ。そんな母親たちの姿を世の中に認知してもらうため、写真集として出版することを決意。新作を追加し、2021年11月にはタイトルを『透明人間 -Invisible Mom-』に改め、自費出版として売り出した。
とくに印象的なのは、教室で撮影されたジャージを着た等身大人形の写真で、それを後ろで支えている山本さんは白いベールで隠れているため、はっきりと顔を認識することはできない。「障害者ばかりの世界にもバリアが存在している」と言葉が添えられている。
「この人形は、学校で先生たちが痰の吸引や経管栄養などの手技を覚えるために使っている小児看護実習モデル『まあちゃん』で、私は普段『まーくん』って呼んでます。モチーフにしたのは、『Hidden Mother』と呼ばれる19世紀の肖像写真で、当時は露光に長い時間を必要としたので、子供が動き出さないように母親が背景に同化するための布を被って後ろから支えて撮影していたんです。先輩お母さんから気配を消して『黒子』に徹するよう言われたんですけど、私は黒子のように活躍しているわけではないから、黒ではなく白い布で自分を覆って『透明人間』を表現しました」。
この写真集が素晴らしいのは、俳優などを一切使っていないことにある。教室や校内の備品をそのまま利用しているし、出演している人たちも、瑞樹くんが通う学校の教員だったりママ友だったりと、山本さんの身近な人たちばかりだ。
「撮影許可を得るために、何度も校長室へ通ってプレゼンをしました。『これを撮らせてくれたら、もう家に帰りたいなんて言わないし、そもそもこれは大学の卒業制作だから、あなたたちは教育者として許可しないと一生後悔しますよ』なんて台詞を言った記憶があります」と当時を振り返る。山本さんによれば、いまでは昨日観たテレビ番組からたわいもない世間話まで、先生たちといろんな対話ができるようになったというから、7年間の付き添いで先生たちとの信頼関係を築いていったからこそ、本作は誕生したと言えるだろう。
話を伺うまで、山本さんの批判の矛先は学校現場にあるのかと思っていたが、それはまったくの誤解だった。あくまで矛先は、学校現場が医療的ケアの実施に消極的で自治体によって対応の仕方が異っているという教育体制やシステムなのだ。「学校側は『子供たちの安全のために付き添って』と言うけど、それって子供のためじゃなくて学校にとっての安心安全なんですよね」と山本さんは語気を強める。
「事前に撮影の意図を隠さず伝え、撮影した写真も全て先生たちに見せています。先生も公務員という立場上、医療的ケアが必要な子と必要じゃない子でこんなに違いがあるのはおかしいと思っていても声を上げることができず、決められたことに従うしかない。仮に医療的ケアを行ったからといって、先生たちに特別な手当が出るわけではありません。そうした先生たちの思いも保護者である私が代弁している感じなんでしょうね」。
写真集の中には、処置コーナで泣き崩れる山本さんを優しくなだめる先生の姿を撮影したものもある。当初は校内の「処置コーナー」というロケーションが気に入って撮影してみたが、現像した写真を見て、山本さんは初めて自分の写真で号泣してしまったのだという。
「付き添いを始めたばかりのときに、こんな風に寄り添ってくれる人がいたらどんなに良かっただろうと思いました。当時は学校にも言えないし、家族も話を聞いてくれるだけで何かをしてくれるわけではない。周りのママ友にだって言うことができないから、適応障害になったんですよね。そういう意味では、撮影していて自分が一番救われているのかも知れません」。
まさに写真を撮ることは、山本さんにとってのフォトセラピーとなっているようだ。自撮りをすることで、自分を客観視して見つめることができるようになり、写真を通じて先生たちとのコミュニケーションも増え、互いの心情を理解することができるようになった。
僕はこれまで数多くの障害のある保護者と出会ってきたが、我が子に障害があることに負い目を感じ、なかには自死してしまった人のことを知っている。それに比べると、「アンビューバッグで何度も息を吹き込んできたから、救命医の人より上手いと思いますよ」と冗談混じりに語る山本さんの姿は、いつもポジティブだ。
「瑞樹が生まれてきたときに、『この先どうなるんだろう』という不安はあったんですけど、自分の子供なので可愛いし、彼が障害を持って生まれた原因も母子感染と言われているので、無自覚だったけど、原因は私にあるんですよ。だから、瑞樹のせいにするのは違うし、瑞樹も望んで障害を持って生まれてきたわけではない。もちろん落ち込むことはありますけど、悩んでいる暇があったら楽しく生きたいですね。私みたいなポジティブなお母さんに出会うことも多いので、今後は『けったいな母親』と題して、お母さんたちを被写体に撮影してみたいですね」。
学校での付き添いのために、自分の仕事や趣味を断念しなければならない母親の姿がある。我が子がスクールバスに乗ることができないため、学校まで毎日送迎をする必要があり、帰宅後も家事やケアで休む暇がない。医療的ケア児にとって卒業後の進路は限られているため、在宅ケアが中心になることが予想される。つまり、いつまで経っても母子分離が難しい状況なのだ。こうした表舞台に出てこない母親たちの思いを伝える手段こそが、山本さんの言葉であり写真なのだろう。
最近では各地で展示の機会も増えていると言うが、教育や福祉関係者からの呼びかけがほとんどのようだ。教育や福祉という狭い枠で主張していくのではなく、広く社会の理解や協力を得るために、分母を変えていくことこそ必要だろう。山本さんの写真には、社会を動かす力があると信じている。母親たちが真の意味で「社会復帰」するために、この原稿もその一助になってくれることを、僕は願ってやまない。