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櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:自分のために描く日々

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第47回は、2016年の熊本地震のあとから絵を描き始めた田口Bossさんを紹介する。

文=櫛野展正

 写真家の知人から届いたメールには、奇妙な模様が描きこまれた画像が添えられていた。色鉛筆で丁寧に塗り込まれたその画面には、まるでツチノコやアメーバのような不思議な生物がうごめいている。

 「じつは、私の母が毎日描いている絵なんです」。

 その作品の魅力もさることながら、作者が70歳を超えた女性であるというだけでなく、ここ数年の間に独学で描き始めたという事実に、僕の心は一気に鷲掴みにされてしまった。

 「田口Boss」と名乗る作者は、熊本市内で暮らしている。1945年に島根県で2人きょうだいの長女として生まれた。35歳のときには、夫と知り合い、結婚。東京に本社を構える出版社の営業所として、山口県内で夫と一緒に絵本販売の業務に従事していたが、長野で長女を出産。すぐに山口へ戻ったあとは、転勤のため、広島や佐賀、そして熊本など各地を転々としたようだ。

田口Bossさん Photo by Maki Taguchi

 「夫が会社を辞めたいって言うから、熊本市内で1992年に夫婦だけの絵本屋を始めたんです。ただ、『絵本をください』ってお客さんが来ても、店番をしている私が講演会のように喋りすぎちゃうもんだから、あまり利益が出なかったんです。商売下手だったので、1996年からは、おもちゃ専門店に移行していったんです」。

 熊本市内で初めてのヨーロッパの玩具専門店として、ドイツを中心とした木の玩具を専門的に扱い始めたものの、ヨーロッパの玩具は市販の玩具よりも高価で、広く知られたものではなかったため、当初は収益を上げることに苦労したようだ。1997年からは、店舗の一角で就学前の子供たちを対象に「何も教えない」ことをコンセプトに掲げた幼児教室を開講。そのときから、Boss(ボッス)という名を名乗り始めた。

 「ヨーロッパの玩具を売るために、子供の発達について学び始めたんです。勉強していくうちに、次第に『うちの子を見ていただけませんか』ってお客さんから声が上がり始めました。でも、私は教師でも保育士でもなかったでしょ。夫と話し合って、幼児室にすることを決めたんです。でも、子供たちは自分で成長する力があるから、幼児室は何かを教えることが目的ではありません」。

 子供たちは店内にあるヨーロッパの玩具で自由に遊ぶことが可能で、子供の認知発達について学んだ田口さんら専門家のサポートのもと、遊びを通じて子供の発達に応じた成長をサポートする教室になっていたようだ。田口さん夫妻は「しっかり・ゆっくり・まちがってもよい」を理念に、およそ20年に渡り、たくさんの子供たちの成長を見守ってきた。

 そんな田口さんに転機が訪れたのは、2016年4月14日のこと。相次いで発生した熊本地震により、住居にしていた借家の天井には大きな穴が空き、住居は半壊してしまった。地震を機に生活は一変。中学校の体育館で寝泊まりする生活から、みなし仮設住宅を経て、現在は市営住宅に住むことができるようになった。店舗のほうはすべての経営を知人の女性に譲ったが、「仕事を辞めて、家でゴロゴロているのは嫌だから何かしなきゃ」と始めたのが、絵を描くことだった。

 「子供が生まれた頃は、見様見真似で油彩を描いていた時期もありました。カンディンスキーが好きで描いてみたら、知人から『若い頃のカンディンスキーみたいだね』と言われて驚いたことを覚えています。当時は、絵を描くなら油絵を使わなきゃと思いこんでいたんです」。

 そのとき使っていた油絵の道具は、被災により使い物にならなくなってしまった。「本当は油絵で描きたかったけど、いま住んでいる家は狭いし、お金もなかったから無理だったんですよね」と手軽に入手することのできる色鉛筆を使って絵を描き始めたというわけだ。

 朝は10時から正午まで、昼食後は13時から15時ぐらいまでと、毎日のように絵を描き続けている。1枚の絵を仕上げるのに、4〜5日かかることもあるようだ。

田口Bossさん Photo by Maki Taguchi
制作道具

 「好きで描いているから、気分が乗らないときは描かないんです。ただ、何のために描いているのか自分でもわからないんですよね。描いたら、自分がすっきりするんです」。

 これまで描いた作品は、300枚ほどに上るという。田口さんによると、描きたいものを決めて下描きのようなものを描くこともあるが、描き始めるとまったく別のものができあがってしまうという。何かを見ながら描くことはないが、一時期は人の身体や細胞に興味がありインターネットで探したり、興味があるものを見つけると虫眼鏡で拡大して眺めたりすることもあったようだ。

 「絵が完成しときは嬉しいんですけど、見ているうちに気に入らないところが出てきちゃうから、また次の絵を描いてしまうんです」。

 なんという原初的な動機だろうか。これ以上に絵を描くという切実な理由ってないだろう。田口さんによると、地震のあとに最初に描いた作品は、木から手が生えたような絵画だったという。あまりにも気持ち悪かったから、途中で描くのは止めてしまったようだ。そして、描き続けているうちに、得体の知れないキャラクターのようなものが画面に出てくるようになった。

 振り返ってみると、子供を産んだあとや熊本震災のあとなど、田口さんは人生の節目に直面するたびに絵を描いてきた。「根底には、描きたかったという思いがあると思うんです」と語るように、田口さんの心の奥底に眠っていた表現衝動が、出産や震災を機に顕在化したのかも知れない。

 「いままでは子供の為や家族のために時間を費やしてきたけど、これからは自分のために生きたいなと思うようになりました。この先、死ぬまでの時間に何をしようかと思ったときに『もう、絵しかないな』と思ったんです。いまは毎日絵を描くことができて、夢のような生活を送っています。ただ、幼児室で働いていたスタッフの勧めでSNSも始めたんですけど、この絵が良いのかは私にはわかりません。かつて絵を描いていた主人は、『すごく面白いし良いから続けたほうが良い、やめたらあかん』って応援してくれています。やっぱり誰かが評価してくれないと続きませんからね」。

 田口さんの絵で驚かされるのは、既に画風が確立していることだ。どんな作品を見ても、すぐに田口さんが描いたものだとわかる。しかし、ひとつとして同じ作品は存在していない。その豊かな表現は、僕らがこれまで抱いていた従来の「高齢者が描く絵画」というイメージを軽やかに打ち砕いてくれる。「いまは積極的に見せたり売ったりするつもりもないんです。80歳になったら、みんなに知らせるために個展を開催したい」と呟くが、あと4年なんて待つこともなく、僕には田口さんの作品が多くの人に知られていく未来しか見えない。

編集部

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