櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:現代の「鯰絵」として

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第44回は、巨大生物が街を襲う絵画を描き続ける稲田泰樹さんを紹介する。

文=櫛野展正

稲田泰樹さん
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 北に世界文化遺産の富士山を仰ぎ、南には駿河湾が広がる静岡県富士市。先日、JR富士駅に初めて降り立った。富士山を間近で仰ぎ見ることを楽しみにしていたが、見上げると厚い雲に覆われている。残念ながら、夏場はほとんど顔を見せてくれないようだ。富士駅から車で20分ほど走った高台に、その家はあった。他界した母親が暮らしていた一軒家を利用したというアトリエへお邪魔すると、畳の上に立てかけられていたのが、巨大生物が大都市を襲う様子を描いた「クライシスシリーズ」と名付けられた絵画群だ。

 「画家・山口晃さんの絵をテレビで観て、自分でも俯瞰図のような絵を描きたいなと思うようになりました。長年仕事で製造整備の立体図面を数多く描いてきたので、もともと鳥瞰図のような絵が好きだったんです」。

クライシス 2020 紙にインク、アクリル、漆 455×530mm

 そう語るのは、この絵の作者・稲田泰樹(いなだ・やすき)さんだ。稲田さんは、1949年に父親の実家がある三重県伊賀市で2人きょうだいの長男として生まれた。稲田さんが生まれた頃は、戦後の復興によるインフレの加速で、貧しい暮らしを強いられていたため、一家は三重にある父親の実家へ居住し、そこから父親は毎朝大阪まで働きに出ていたようだ。稲田さんが1歳になった頃には、ようやく家族で大阪へ転居することができた。

「おとなしい子どもでしたけど、小さい頃から手先は器用で、プラモデルをつくることが好きでした。小学校4年生のときに1年だけ絵を習いに行ったことはあるんですけど、授業以外では絵なんて描いたことがありませんでした」。

稲田泰樹さん

 高校卒業後は、一浪の末に九州工業大学へ進学。大学教授だけでなく営業職として働いていた父親から「営業よりも技術職のほうが良い」と勧められたこともあり、卒業後の1972年からは大手電機メーカーへ就職し、エアコンの製造部技術担当として富士工場へ配属となった。「高度経済成長の真っ只中で、男の子は技術系に行って働くというのが世の風潮でした」と当時を振り返る。生産技術などを研究するなかで40代半ばとなり、会社のなかでもキャリアを築いてきた稲田さんにとって転機が訪れたのは、会社の海外進出のために海外赴任を命じられたときのことだ。

 「1995年からの5年間は、タイの首都バンコクへ駐在したんです。駐在する前に上司から、バンコクへ赴任する人には『夜の街ばかり行って、女性に狂って現地で彼女と子供をつくって騒ぎになって帰ってくる人』『仕事にのめり込んでノイローゼになって自殺する人』『仕事も遊びも全部ほどほどにして無事に戻ってくる人』の3つのタイプがいることを教えられました」。

 そう語る稲田さんは、バンコクへ駐在してすぐ自分へのブレーキとして、部屋に籠もって蘭の花などを買ってきてはスケッチを描き出した。その後は、2002年から3〜4年ほどは中国の広州市へ出張に出かけるなど退職までは海外赴任が続き、60歳で退職をした。

クライシス 2020 紙にインク、アクリル 727×910mm

 退職して数年が経った頃、絵を描いていた妻の知人から、駐在員時代に描いていたスケッチを褒められたことで、2016年から本格的に絵を描くようになったというわけだ。

「初めての作品は、巨大な蟹を描いたんです。最初は背景に砂を描こうと思ったけど、それだと面白くないなと思っていたとき、山口晃さんの絵が頭に閃いて、背景に俯瞰図を描くようになりました」。

進撃のタラバ 2016 パネルにインク、水彩 727×910mm
クライシス 2017 パネルにインク、水彩 970×1455mm

 すでに1作目から独学で現在の「クライシスシリーズ」の元になる絵を描いていたことに驚かされてしまう。2作目には巨大な蟹の絵の背景に、稲田さんが暮らす富士市の街の様子を重ね合わせた。ビルなどを描くのに極細のマーキングペンを使い、中央の蟹はアクリル絵の具で色を塗った。完成までに1ヶ月ほどを要したと言うが、よく見ると、稲田さんが働いていた会社まで描いてあった。他の作品では稲田さん宅の背後にそびえる富士山が噴火した様子を描いたものまである。平穏な暮らしのなかで、自分の街が巨大生物に襲撃されたり富士山が噴火したりする光景を描いているさまは、どこか批評的にも感じてしまう。

「キングコングやゴジラは映画で観ることができるから、面白くないでしょ。だからと言って、可愛いウサギや鳥を描いてもしっくりこない。一方で、台風や水害、地震などが頻発する恐ろしい社会になっているから、そうした世の中の不安な象徴が街を襲っているというメッセージのある絵を描いてみたいと思ったんです」。

 ライオンや虎など獰猛な動物ではなく、身近にいる蜘蛛や海老といった生物が巨大化した絵として描かれているのが、何とも面白い。とくに海老や蟹などの甲殻類を好んでモチーフとして取り上げているが、たんに「赤色」が好きなだけではない。稲田さんによれば、ロブスタ―やタラバガニを買ってきたあとに一旦凍らせたあと、描くときは解凍してじっくりスケッチしているのだという。絵が完成したら、きちんと食べて供養しているというから、稲田さんはまさに「創造主」というわけだ。2018年には《クライシス-Kより》が第103回「二科展」で特選を受賞するなど、近年はますますその絵に注目が集まっている。

クライシス-Kより 2018 パネルにインク、アクリル 1120×1620mm

「この《クライシス-Kより》を描いた2018年は、北朝鮮による弾道ミサイルが何発も日本に向けて飛ばされていた年なんです。『東京にもミサイルが飛んでくるぞ、怖いな』という気持ちを絵にしたくて、金正恩さんの名前や似顔絵をロブスターの中に描いているんですよ」。

 2019年からは、街が襲われている表現をより追求するため、まるでカーブミラーに写った景色のように街全体が激しく歪んだ絵を描き始めた。これまで20作品ほどを描いてきたが、2作目以降は主に東京の街がテーマになっている。何より、地面に根を張るように建つ真っ赤な東京タワーの造形美に強く惹かれるのだそうだ。背景の制作にあたっては、まず製図ソフトなどで下絵を描き、それをプロジェクターで画面に投影して写し取っていくのだという。

クライシス-Uより 2019 パネルにインク、アクリル 970×1455mm

 「女房から『売れないし汚いし飾るところもないから、気持ちの悪い絵ばかり描くな』と言われたので」と「クライシスシリーズ」に家で飼っている2匹の猫を登場させたこともあった。そして、空き時間には水彩やペンを使って風景や静物画にも取り組むようになり、現在は水彩の面白さを感じているようだ。いまだ公募展へ出展するために「クライシスシリーズ」は描き続けているというから、稲田さんにとって2種類の絵を描くことは、ある意味で心の均衡を保つ役割を果たしているのかも知れない。

ひょこりネコ 2018 パネルにインク、水彩 803×1167mm
風神雷神 2020 パネルにインク、アクリル 606×1454mm

 稲田さんの「クライシスシリーズ」を眺めていると思い出すのは、1855(安政2)年10月2日の安政江戸大地震のあとに多く出回った錦絵「鯰絵(なまずえ)」のことだ。地震を引き起こすとされた大鯰を扱ったこの「鯰絵」と呼ばれる版画は、2ヶ月間で200種類のものが出回ったと言われている。しかし、当時の人たちは鯰が地震を起こすという説を真に受けておらず、地震に対する怖れや震災後の世相に対する風刺、あるいは世直しへの願望など、民衆のさまざまな思いを鯰絵に投影していた。つまり、人々の沈んだ気持ちを晴らし、精神的に災いを乗り越えるために鯰絵は役立っていたようだ。

 帰り際、再び振り返ってみても、まだ富士山は雲に覆われたままだった。史実によれば、1707年には史上最大のM8.6とされる超巨大地震である「宝永地震」が南海道沖を震源域として発生した。その49日後には富士山が南東斜面から大噴火し、その噴煙は上空2万メートルまで立ち昇り、甚大な被害をもたらしたとされている。いつ発生するかも分からない南海トラフ巨大地震や、それに誘発されて大噴火を引き起こすとさえ言われている富士山。迫りくる“Xデー”が来たあと、はたして稲田さんの「クライシスシリーズ」は、僕らを絶望の淵から再び奮い立たせてくれる「鯰絵」のような存在になっていくのだろうか。そんなことを考えながら帰路についた。