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排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン

オリンピックに向けて東京の各所で再開発が進行した10年代。街には公共的で開かれるように、多くのベンチやパブリック・アートと思わしき造形物が登場した。しかしながら、それらの存在は、特定の人々の排除のために作用する「過防備」の一旦を担っているとも言える。これらを「排除アート」としての視点から研究する建築史家の五十嵐太郎が、都市機能としての不寛容さを指摘する。

文=五十嵐太郎(東北大学大学院・教授)

京王井の頭線渋谷駅前のオブジェ

過防備都市の誕生

 近年、排除アートが増えているというニュースが散見される。路上、あるいは公共空間において、特定の機能を持たない、作品らしきものが、その場所を占拠することによって、ホームレスが滞在できないようにするものだ。もっとも、こうした現象は最近始まったわけではない。16年前、すでに筆者は『過防備都市』(中公新書ラクレ、2004)を上梓した際、都市のフィールドワークを通じて、排除アートというべき物体が登場していることを確認した(*1)。有名な作品(?)としては、1996年に新宿西口の地下街でホームレスを排除した後に設置された先端を斜めにカットした円筒状のオブジェ群や、京王井の頭線渋谷駅の改札前において小さな突起物が散りばめられた台状のオブジェなどが挙げられるだろう。都築響一も、『ART iT』2号(アートイット、2004)において、こうしたオブジェに対し、「ホームレス排除アート」、もしくは「ギザギザハートの現代美術」と命名している。

京王井の頭線渋谷駅前のオブジェ
新宿西口地下通路のオブジェ

 何も考えなければ、歩行者の目を楽しませるアートに見えるかもしれない。ときには動物を型取り、愛らしい相貌をもつケースさえあるから厄介で、ほのぼのとしたニュースとして紹介されることもある。しかし、その意図に気づくと、都市は悪意に満ちている。排除される側の視点から観察したとき、われわれを囲む公共空間はまるで違う姿をむきだしにするはずだ。私見によれば、1990年代後半から、他者への不寛容とセキュリティ意識の増大に伴い、監視カメラが普及するのと平行しながら、こうした排除アートは出現した。ハイテク監視とローテクで物理的な装置である。21世紀の初頭、路上に増えだしたときはニュースにとりあげられたが、いまや監視カメラが遍在するのは、当たり前の風景になった。いち早く、マイク・デイヴィスの『要塞都市LA』(青土社、2001、村山敏勝・日比野啓原訳、原著1990)も、セキュリティが最優先される都市の状況を指摘し、アメリカの公園において定期的に放水装置を作動させることで、浮浪者が居座れないようにするといった対策が施されていることを報告している。

新宿西口地下通路のオブジェ
動物のキャラクターが据えつけられたベンチ 撮影=吉田孝行

 ベンチの真ん中に不自然な間仕切りをつけた排除系ベンチが目立つようになったのも、このころだった。言うまでもなく、ベンチは座るためにデザインされたプロダクトである。だが、通常は細長いことによって、その上で寝そべることも可能だ。これは本来、意図されていなかった機能かもしれないが、ホームレスにとっては地面の上で寝ないですむ台として活用できる。そこで座るという役割だけを残して、寝そべることを不可能にしたのが、間仕切り付きのベンチなのだ。当時、ベンチをよく観察すると、間仕切りは明らかに後から付加されたものが多く、行政や管理者の公共空間に対する考え方の変化が可視化されていた。すなわち、誰もが自由に使えるはずの公共空間が、特定の層に対しては厳しい態度で臨み、排除をいとわないものに変容している。おそらく、通常の生活をしている人は、間仕切りがついたことを深く考えなければ、その意図は意識されないだろう。言葉で「~禁止」と、はっきり書いていないからだ。しかし、排除される側にとって、そのメッセージは明快である。

仕切りのついたベンチ
不定形状のベンチ

 排除系ベンチは「進化」し、最初から間仕切りを備えたプロダクトが登場した。ベンチのメーカーのホームページを調べると、こうした製品は様々に存在することが確認できる。背もたれがなく、座板が丸みを帯びたベンチは、さらに座るという機能だけに特化される。運動ができる健康増進ベンチという名前で、きわめて不自然な造形を正当化するものも認められた。もちろん、製品の説明にホームレスを排除するためとは書かれていない(はっきりと目的を記していれば、炎上案件だろう)。ともあれ、間仕切りが存在していれば、本来寝そべることは可能だが、それを拒否していることを想起させる。が、極端に座板が細かったり、座板の代わりに線状の部材を並べるようなプロダクトは、間仕切りが必要ない。最初からそこで寝そべることができるかもしれないという選択肢をあらかじめ奪う。だが、ベンチはベンチである以上、座るという機能は残る。ベンチはアートではなく、デザインされたプロダクトだからだ。これをさらに「進化」させると、排除アートになるだろう。

ミヤシタパークの棒状のベンチ

アートとデザインのあいだ

 なぜなら、アートはデザインと違い、直接的な機能が求められないからだ。青山のビル前でドーナツのような物体を初めて見たとき、次のステージに到達したと感じたことがある。全然、既存のベンチには似ていない。ただし、ほどよい高さなので、そこで座るという行為をアフォードするだろう。実際、数人が腰掛けていた。が、リング状に湾曲し、丸味を帯びているために、まったく平らな面がない。なるほど、これは座ることは可能なオブジェだが、もはや最初から寝そべるという行為をまったく想像させない。しかし、座ることさえ拒否する排除アートも存在する。公共の場所を物理的に占拠し、なんら身体のふるまいを働きかけない造形ならば、それが可能だ。これを機能なき純粋なアートと呼ぶべきなのか? いや「~させない」という否定形の機能はもつ。そもそも公共の空間は、さまざまな行為を許す自由な場なのだが、その可能性を部分的につぶすことに貢献している。とすれば、排除アートは、作者が表現を行うアートではなく、ネガティブな機能をもつデザインなのだ。

青山のドーナツ状のベンチ

 実際、「排除アート」にあたる英語としては、やはり「Art」という言葉は使われておらず、「Hostile architecture(敵対的な建築)」や「Defensive urban design(防御的なアーバン・デザイン)」などが使われているという。筆者も表現としてのアートではなく、目的をもつデザインだと思うのだが、「アート」と呼ぶことが定着したのは、日本におけるアートの受容と関係があるかもしれない。なんだかよくわからない、不思議なかたちをしたものを、とりあえず「アート」と呼ぶという風潮だ。例えば、今年オープンしたミヤシタパークには、通路に不定形のフォルムをもったベンチ、間仕切りはないが、途中に2つのリブが入るメッシュ状のベンチ、細い座板と細い天板をV字型の側面でつないだベンチ+椅子が存在するが、いずれも長居したくない、あるいは寝そべることが難しいデザインである。が、これらを紹介しているネットのレポートなどを読むかぎり、「アートがたくさん!」という風に、目に楽しいオブジェ的なベンチとして受容されているようだ。座りにくいベンチが、アートという美名のもとにカモフラージュされている。

ミヤシタパークの不定形ベンチ
ミヤシタパークのメッシュ状のベンチ

パブリック・アートは公共空間を蝕むのか

 排除アートを都市空間に設置されるパブリック・アートと比較しよう。戦後日本で増殖した裸婦像であろうと、抽象的な彫刻であろうと、パブリック・アートは、必ず作家の名前やタイトルを記したプレートが付いている。それに対し、排除アートは、制作者の名前がどこにも記されていない。すなわち、誰かがデザインしたものではあるが、アーティストの作品ではない、ということだ。かといって量産されるプロダクトでもなく、場所にあわせた一品物が少なくない。実際、ベンチのメーカーのホームページでも、機能を説明しづらい排除アートらしきものは販売していない。なるほど、デザイナーの名前は意識されないが、同じものが複数つくられるプロダクトとも違い、環境を読み込んだ造形がなされる状況は、建築と似ていよう。とはいえ、アーティストの作品が、結果的に排除アートとして利用されることもありうる。開発者側が、戦略的に作品の位置やサイズを決めて、パブリック・アートの制作を依頼する場合だ。また物理的な排除機能がなくとも、目立つ場所に居づらいという雰囲気も醸成するだろう。ゆえに、他者の排除に貢献したくないならば、アーティストは慎重にならざるをえない。

金沢駅前のベンチ

 排除アートは、言葉によって禁止を命令しないが、なんとなく無意識のうちに行動が制限される、いわゆる環境型の権力である。現在、SDGsやバリアフリーの目標が高らかにうたわれているが、実際に都市で進行しているのは、真逆の事態ではないか。ホームレスが使いにくいベンチは、実は一般人にとっても座りにくいベンチでもある。そして排除アートは、われわれが使えるはずだった場所を奪う。本来、広場や公園などの公共空間は、有料で入場するテーマパークと違い、未定義の部分があり、様々な可能性に開かれている。それをあらかじめつぶすのが、排除アートなのだ。いまや騒ぐ子供がうるさいということで、公園さえ迷惑施設とされているが、下手をすれば、将来、遊ぶ機能を失ったオブジェで埋めつくされるのかもしれない。アートだけではない。愛知万博の直前、公園のホームレスが強制的に排除された後、同じ場所には花が植えられ、緑を大切にという看板がかかげられていたが、どう考えても人には厳しい処置だった。他者を排除していくと、誰にもやさしくない都市になる。

愛知万博会場付近の公園

 最後に岡本太郎の《坐ることを拒否する椅子》(1963)をとりあげよう。彼は巨大な壁画や屋外彫刻のように、公共空間に設置され、誰も所有しないアートを推進したが、これは題名通り、座面が丸かったり、ハート型だったり、顔がついているなど、座りにくい陶製の椅子である。もちろん、これは他者の排除を狙ったわけではない。生ぬるく快適に生きると人間が飼いならされてダメになるから、山の中の切り株のような椅子をつくり、大衆社会に送り込んだものだ。いわば反語的なメッセージである。座るな、ではなく、それでも果敢に座ってみろ、と訴えるものだ。一方、彼は、弱者である病人や高齢者は座りやすい椅子を使うべきだと述べたという(*2)。当然、岡本の時代に排除アートは存在しなかった。「坐ることを拒否する椅子」は、モダニズムの機能主義に対する批判でもある。一方で排除アートは「~させない」という機能を担わされた造形だ。まずはわれわれが街に出かけ、他者の視点をもって、知らないうちに増えている排除アートを発見・体験し、都市の不寛容を知ることから、意識を変えていく必要がある。 

岡本太郎 坐ることを拒否する椅子 1963 川崎市岡本太郎美術館蔵 提供=川崎市岡本太郎美術館

*1──その一部は「過防備都市2ー戦場としてのストリート」(https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1169/)で読むことが可能。
*2──https://www.1101.com/tanoshimi/2017_aw/taro/2017-11-09.html

編集部

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