1、接吻―接触
髙橋耕平と小林耕平の二人が2016〜18年に展開した「二人の耕平」(*1)は、「接触」を通じて「愛」という状態について考察するものである。と、つい〈考えさせられてしまう〉のは、「同化」がテーマのこのプロジェクトに髙橋が混ぜ込んだ、接吻やセックスなどの性愛にまつわるモチーフに依るところが大きい。そのなかでも際立つのは、目隠しをされた多数の人物の性的な接触が折り重なるように描かれた、髙橋の壁画《絵-接触の肯定から始める》[図1]だ。これは「二人の耕平」の4度目の展示「接触の運用の往復」(HAPS)にて、二人の耕平の造形物による掛け合いの起点として、ギャラリー壁面に提示された絵画である。平面的構成、文様のように画面に広がる線画、目隠しや性愛のイメージが生じさせる魔術的雰囲気といったこの絵画の様相は、19世紀から20世紀への転換期ヨーロッパの、いわゆる「世紀末芸術」の様式的特徴を思い起こさせる。
ユーゲントシュティールの慓徴とみなされるペーター・ベーレンスの版画[図2]や、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレによる図像群に見出されるように、「接吻」や「抱擁」といった性愛のモチーフは、先の世紀末当時、拡大する資本主義社会と、それを下支えする科学的実証主義への対抗手段として要請された二つのテーゼ、「エロス」と「タナトス」をゆきかう象徴であったのだろう。これらの神秘主義が扱う接触は、唯一無二の「ファタール(宿命的)」なものとして、劇的に演出されて描かれたが、髙橋の接吻の絵にはしかし、そうした劇的な要素は見出されない。
まずもって髙橋のものでは、複数の人物像のペアが描かれており、接触の唯一性という幻想は軽々と放棄されている。これが同一のペアの様々な接触の異時同図であるのか、あるいは別々のペアによる接触が乱交的に描かれた状況であるのかは明瞭ではないが、ここではっきりとしているのは、接触は複数のかたちを持つ、ということだ。いくつかにおいては、髪型やバストといった身体的特徴から男女の人間のペアと推定されるが、あまりにも細部的な描写のために、性別どころか、人体のどの部位がどう接触している描写なのか判別がつかない部分もある。たんに有機的物体のかたちの連なりとなったそれらは、岩肌に合わせて形象が与えられた洞窟壁画のような呪術性を醸し出す。
髙橋が「全方向の接触行為」と述べる、この複数性の愛とでもいうべき表現は、ベーレンスの接吻の図像が示すような中心化の平面構造を拒むものでもある。後には建築家に転身し、機能主義のモダン・デザインを先駆けたこの構成主義者の画面は、二人の人物のうねる髪の毛のリズミックな動きが、中心の接吻–接触の静止した緊張状態を厳格に縁取りし、視線を接触点に集める構図となっている。接触が神秘性を帯びるのは、こうした中心化構造の貢献によるものだ。
これに対し、髙橋の画面では、視線は触知的になぞるように接触の変奏を次々と追い、その接触点の一つひとつを認知する瞬間に小さな思考停止が引き起こされる、ダブルバインドのような事態が発生する。静と動の両立は、縁取りなく脱中心的にじわじわと拡散していく。また、ウィーン分離派に特徴的な、法悦や頽廃などの陶酔的なロマン主義も、元来は禁欲的制作態度を示してきた髙橋には無縁のようだ。濃密な接触のかたちを重ねながらも、近代的主体の表現となるメランコリックな感情はここでは希薄であり、物理的接触の戯画的な扱いはエロティシズムを排している。
ここで、髙橋のこの接吻絵画をさらに考察するにあたって比較参照するべきなのは、むしろエドヴァルト・ムンクの愛についての連作における《接吻》である。1897年の油彩画では、ムンクは、口づけする男女のその接触点をあえて描かず、色面の塊りで二人の頭部をつなげた(このモチーフは版画と油彩画で繰り返されているが、共通して頭部が融解する描写となっている)。ムンクの描く接吻–接触の融解に、同時代の文学者、スタニスワフ・プシビシェフスキは「個人的意識の消失」を見てとる。
ひとは二つの人間の姿を見る、その顔はひとつに融けあっている。そこには一人一人を識別できる輪郭はなにもない。ひとが見るのは融解点だけであり、それはひとつの大きな耳のように見え、それがまた血の恍惚のなかでつんぼになるのだ。それは溶けた肉を捏ねあわせた塊りのように見え、そこにはなにか胸のわるくなるようなものがある。たしかにこの象徴化の方式は異常である。しかし接吻という情熱のすべて、痛みにみちた情欲のおそるべき力、個人的意識の消失、二つのむきだしの個性のあの融合——すべてこれらのことがきわめて率直に描出されているのだから、われわれはその胸のわるくなるような異常な様相をも見逃さなければならないということだ(*2)。
前述のとおり、複数の接触点を画面上にコラージュして集積する髙橋の接吻の絵画は、「個人的意識」や「むきだしの個性」、さらには「痛みに満ちた情欲」の引き起こす宿命を感じさせるものではない。19世紀末の画家が、表象不可能として塊りに変えた「胸のわるくなるようなもの」(接触の外側にいるわれわれはその接触のかたちを見ることができない)、この接吻–接触による融解の内実をこそ、髙橋はクローズアップにして表象する。ここでは身体は断片化され、個人たる人間の輪郭はすでに問題とならない。
髙橋がこの前段階に接触のテーマを扱った作品として、「『切断』のち『同化』」(kumagusuku後期)に出展の《48》[図3]が挙げられるだろう。四十八手の全体位をとる二人の人物を、上からシーツを被せて一つひとつ写真撮影した作品だ。これは写真作品、ポスターのかたちで発表されている。会場で配布されるポスターには、動画サイトのURLが記載されており、体位名のナレーション入りスライドショー映像を見ることができる趣向だ(*3)。シーツによる、接触の隠蔽。クリストのごとく、梱包されたオブジェクトは意味性をその内に閉じ込める。タイトルが仄めかすものの、映されたその対象がなんであるかは、サイト上で発表された映像の「ネタバレ」に当たるまで気づかない可能性が高い(少なくとも、シーツの向こうに存在する人物たちがどのような組み方をしているか、画像のみで判別がつく鑑賞者はほぼいない?だろう)。シーツはまた、接触する二人の輪郭を一個体にまとめる機能を果たす。鑑賞者が目にするのは、二つの人間の姿ではなく一つの彫刻的な隆起である。ムンクの接吻絵画と同様に、ここにおいてもまた、外側のわれわれはその接触、その融合のかたちを見ることはできない。同展示内で動画サイトのURLとパスワードが掲示された《口口(mouth mouth)》(*4)は、無数の映画からキスシーン画像が集められたスライドショー映像であるが、会場でパスワードを手に入れた者のみが閲覧可能である。こちらでは、接触を見る権利は内部に招き入れられた者(この掲示に接触した者)に限定されているという仕掛けだ。
このすぐ後に発表された接触壁画では、その手つきは反転し、逆に接触―融合そのものが暴露されることとなった。今度は、われわれはそれらの接触のかたちを見ることができる。見ることができないのは、融合の最中、目隠しをされた彼ら自身の方なのだ(”Love is blind”?)。当事者である彼らは、まさに自分が接触しているその相手を見ることができない。眼差しは奪われ、誰に触れているかわからないその感触のみが残された。「接触の複数性」と「眼差しの封印」。本論では、続く議論において、髙橋の接触壁画において確認されるこれらの特性を、「主体」と「共同体」の問題の諸相で捉えていき、そのことで「二人の耕平」が試みた「同化」のモデルを照射してみたい。