2018.12.30

2018年展覧会ベスト3
(美術家、美術批評家・黒瀬陽平)

数多く開催された2018年の展覧会の中から、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。今回は美術家、美術批評家の黒瀬陽平編をお届けする。

鴻池朋子 Dream Hunting Grounds(部分) 2018
「鴻池朋子展 ハンターギャザラー」展(秋田県立近代美術館、2018)展示風景より ©Tomoko Konoike
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「山のような 100ものがたり」 (東北芸術工科大学キャンパス、2018年9月1日~24日)

「山のような 100ものがたり」より、「現代山形考 -修復は可能か? 地域・地方・日本-」(山形ビエンナーレ2018)の展示風景 撮影=根岸功

 山形ビエンナーレ内の1プログラムであり、画家の三瀬夏之介によるキュレーション。本体の山形ビエンナーレ自体はコンセプトも曖昧で、地元作家や山形にゆかりのある作家、学生を寄せ集めた典型的な悪い「地域アート」と化していたが、山形芸術工科大学の敷地内を効果的に使った本展はまったくの別ものだった。

 とりわけ、本館7階ギャラリーで開催されていた「現代山形考 -修復は可能か? 地域・地方・日本-」は、山形の美術のみならず宗教史的、民俗史的なリサーチに基づく、三瀬なりの新たな美術史観の提示であった。 新海一族(宗慶、竹太郎、竹蔵、覚雄)と高橋一族(由一、源吉)を中心に語られる「ものがたり」は、近代日本美術史の前提を大きく揺るがす視点を投げかけていたと同時に、山形芸術工科大学の卒業生も作家として巧みに配置しており、同校で教鞭をとっている三瀬の「教育活動」の成果でもあるだろう。

 

スペース・プラン記録展−鳥取の前衛芸術家集団1968-1977− (ギャラリー鳥たちのいえ、2018年12月7日〜19日)

「スペース・プラン記録展−鳥取の前衛芸術家集団1968-1977−」展示風景 撮影=海野林太郎

 1968年に鳥取で誕生し、そして、県外にほとんどその活動を知られることなく忘れさられつつあった前衛芸術家集団「スペース・プラン」を紹介する展覧会。

 スペースプランのメンバーは、日本のミニマリズムの先駆者、福嶋敬恭(鳥取出身)との交流もあって、世界的なミニマリズムの動向とほとんど時差なく受容していた。 それだけでなく、結成2年目の1969年には、鳥取砂丘を会場としてランドアートやアースワークさながらのインスタレーションを展開したり、1970年にはブラックライトや動物を扱った展示をするなど、ミニマリズムの枠をはるかに越えた活動を、わずか数年のあいだに行っていたことは注目に値する。

 近年、忘れられた作家やグループに対する再評価や研究が盛んであるが、本展によって発掘され、はじめて体系的に示された資料の数々は、既存の戦後美術史に対する補完や修正に留まらない、まったく異なる戦後美術史観の可能性を示していた。

 

鴻池朋子 ハンターギャザラー (秋田県立近代美術館、2018年9月15日~11月25日)

鴻池朋子 北の長持唄(映像) 2018 ©Tomoko Konoike

 鴻池朋子の秋田県立近代美術館での個展。鴻池自身が生まれ育った地での大規模個展であり、幼少期から親しんできた奥羽山脈に向き合いながら、「ハンターギャザラー(狩猟採集民)」をテーマとした本展は、これまで主に都心で見ることが多かった鴻池作品、展示とはずいぶん異なる印象を受けた。

 もとより、鴻池は既存の現代美術の形式や理論に縛られるタイプではない。だから、既存の美術批評の言葉ではとらえづらい作家であり、そこが最大の魅力である。本展で鴻池は、会場全体を使って、かつてない規模で「作品」を解体し、壮大なモチーフと格闘しながら新しい表現を、まさにその場で組み立てているように見えた。この表現を、いったいどんな言葉で語るべきか、鑑賞者であるこちらが試されるような、そんな展示であった。

 例年のように、ワーストも挙げておく。 残念ながら今年は、ワースト候補が非常に多かった。「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」(水戸芸術館)や「五木田智央 PEEKABOO」(東京オペラシティ アートギャラリー)、「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」(森美術館)、「カタストロフと美術のちから展」(森美術館)などはワースト上位に食い込むラインアップだが、すでに著者はレビューなどで触れており、ある程度議論もしているので、そちらを参照していただきたい。

 ワースト3位は「民藝 MINGEI -Another Kind of Art」(21_21 DESIGN SIGHT)。「クールジャパン」でオタク文化が喰い荒らされた後、次なるオリエンタリズムの生贄として「民藝」が担ぎ出されるのは時間の問題だと思ってはいたが、今年に入ってすでにその兆候が見え始めている。 民藝とは、良くも悪くもイデオロギーとして人工的につくられた概念であり、そのことに対する再検討抜きで称揚すべきものでは決してない。しかし本展は、日本民藝館の館長である深澤直人の無内容な「ポエム」とともに、ひたすら民藝をフェティッシュとして愛でるという、目を疑うような内容だった。

 ワースト2位は、「起点としての80年代」(金沢21世紀美術館)。1980年代の日本現代美術に対して、サブカルチャーの影響をいっさい認めないという強い意思を持った展覧会。明確な仮想敵として、椹木野衣によって提唱された90年代の「ネオ・ポップ」が名指しされている。80年代の現代美術が、オタク文化を中心とするサブカルチャーとの影響関係で語られる「ネオポップ」の前史として扱われるがよっぽど嫌なのだろう。 しかし、本展で取り上げられている作家の半数以上が、サブカルチャーから明らかな影響を受けていたり、あまつさえサブカルチャー出身だったりすることについて、どう説明するのだろうか。

 そもそも、椹木史観が支配的になったのも、70年代以降の日本現代美術史をまともに編纂してこなかった美術館側の責任でもあるはずだ。自分たちの怠惰を棚に上げて、明らかに事実に反する歴史観を恣意的に語るのはいかがなものか。 独自の歴史観を語るのは結構だが、キュレーターのテキストを読んでみると、結局は「関係性の美学」や「オルターモダン」といった「グローバル」に流通する業界用語に沿って説明できるよう、サブカルチャーをノイズとして排除しただけのようだ。業績を積んで国際的な舞台で活躍したいという学芸員の野心のために、歴史が歪められ、作品の文脈が忘れ去られる。彼らはそのうち、90年代にも手を伸ばすことだろう。

 ワースト1位は、新しくできたギャラリー「ANOMALY」でのオープニング展のChim↑Pom「グランドオープン」。本展によって、1990年代から続いた現代美術のひとつの流れが、完全に終わってしまった。もはや国内のコマーシャル・ギャラリーにはなんのアイデアもなく、Chim↑Pomもその閉塞状況を打ち破るどころか、コマーシャリズムにだらしなく身を委ねていた。 本展については、年明けに公開されるレビューで詳しく論じたので、そちらを参照してもらいたいが、間違いなく2018年のワースト1位であり、ひとつの時代の終わりを告げる記念碑的事件であったと言えるだろう。