廃墟から美術館へ
2021年1で約40年の歴史に幕を降ろす原美術館。その歴史をあらためて振り返りたい。
原美術館が開館したのは1979年12月のこと。原俊夫(原美術館を運営するアルカンシェール美術財団理事長)の祖父にあたる実業家・原邦造の私邸を美術館として開館させたものだ。
原邸自体の竣工は、いまから80年前の1938年に遡る。この邸宅を設計したのは渡辺仁。渡辺は、東京国立博物館本館や銀座の和光本館などを手がており、当時を代表する建築家だった。白く平面的な壁やガラス窓、鉄格子などを取り入れたモダニズム建築である原邸は、2003年にはDOCOMOMO(モダン・ムーブメントに関わる建物と環境形成の記録調査および保存のための国際組織)にも認定されるなど、建築としても高い評価を受けている。
しかしこの原美術館は開館以前、じつは廃墟同然だったのだという。
原邸は終戦後、GHQによって接収。将校の宿舎として使用されていた。1951年頃には返還されたが、原家はこの邸宅には住むことはなく、原俊夫の代になったときには10年以上も空き家という状態だった。原が70年代に現代美術館の開館を決意した際、廃墟同然の原邸を利用するつもりはなかったという。
原美術館副館長の安田篤生はこう語る。「開館当初は現代美術館なんてものは東京になく、ブリヂストン美術館のように、どこかのビルを借りて美術館にする計画だったそうです」。しかし、原がデンマークのルイジアナ近代美術館(1856年に建てられた邸宅を改装した美術館)に出会ったことで、原邸は美術館へと生まれ変わることとなる。
コレクションの構築と常設作品の誕生
かくして1979年に開館した原美術館だが、同館のコレクションは77年のアルカンシェール美術財団設立以前には存在せず、コレクション構築は77年から始まった。安田はこう語る。「当時の購入台帳を見ると、ジャクソン・ポロックなんかの作品も比較的買いやすい価格で、いまからは想像できないくらいでした。良い時代にコレクションしたと言えますね。80年代以降は現代美術のマーケットが加熱していきますから」。
財団設立から美術館開館までのわずか2年で、同館では200点ほどの作品を購入。原美術館コレクションの礎が築かれた。「開館当初は企画展をやらず、コレクションを並べるだけの美術館でした。当時は日曜日が休館日で、カフェもミュージアムショップもなかった。その代わり、月に1回のペースで小規模な講演会をやったりして、現代美術館としての評判を集め始めたんです」。
そして開館翌年の80年より、若手作家を紹介する企画展「ハラアニュアル」がスタート。翌81年には海外作家では初の個展としてジャン=ピエール・レイノー展が開催された。このとき制作されたインスタレーション《ゼロの空間》(1981)が、同館にとって初の常設作品だ。床から壁、天井まですべてが真っ白なタイルで覆われたこの空間は、いまも同館で見ることができる。
ちなみに、いまや原美術館を語るうえで欠かせないカフェができたのもこの頃だ。85年には現在より小規模なカフェがオープン。当時、厨房は邸宅時の配膳室を利用しており、お茶を出すだけの簡単なものだったという。現在のカフェの姿になったのは88年のこと。テラス席部分と厨房を増築し、「カフェ ダール」は誕生した。
88年は原美術館にとってもうひとつ大きな出来事があった年だった。群馬県渋川市、伊香保温泉の程近くに磯崎新設計の「ハラ ミュージアム アーク」が開館したのだ。
「当時は海外からも原美術館が注目されるようになってきており、コレクションも開館当初より増えてきていた。ここ(原美術館)だけでは手狭になり、もうひとつの美術館を開館させたんです」。
いまも原美術館のコレクション収蔵庫はハラ ミュージアム アークにあり、現時点でのコレクション総数は1000点強に及ぶ。
ハラ ミュージアム アーク開館の翌年、89年には原美術館では2番目の常設作品となる宮島達男の《時の連鎖》が完成。設置されたのはもともと原邸のトイレだった場所で、その後は使われていなかったため、展示場所に選ばれたのだという。
94年になると、来館者用のトイレだった場所を森村泰昌の《輪舞》展示室として転用。ちなみに、来館者エントランスにあるナムジュン・パイクの《ニーシェ イン T》が設置されたのも同時期だ(同作は原俊夫のイニシャルである「T」に形を似せているのだとか)。
その後、2001年に元暗室が須田悦弘《此レハ飲水ニ非ズ》の展示場所に、04年には元浴室が奈良美智の《My Drawing Room》となるなど、原邸の歴史を汲みながら、原美術館の特徴である常設展示室は続々と誕生していった。
閉館の理由とその未来
これまで原美術館の歴史を振り返ってきたが、気になるのは2020年末の閉館と、それ以降の原美術館の行方だ。
同館は竣工から80年を経ており、建物自体が老朽化している。これが閉館の大きな理由だ。古い建築を再利用しているがゆえに、ユニバーサルデザインやバリアフリーの観点から美術館としての運用には問題がある。では建て替えればいいのかというと、話はそう簡単ではない。
集客施設としての条件が厳密に設定されている東京都の条例の規制上、様々な制約がのしかかり、美術館として建て替えることは非現実的だという。「今後老朽化が進んだ場合、さらに対応が難しくなってくるでしょう。バリアフリーの対応にしても、エレベーターを新設すれば本来のデザインが大きく損なわれることになる。建て替えにしても条例の問題があり難しい。どのみち、数年後には決断しなければいけないときがくるのです。であれば、40周年の節目に潔く閉館しよう、ということになりました」。
直接的に閉館の理由ではないが、90年代以降の作品の大型化も原美術館にとってはネックとなってきた。同館では美術館の展示スペースにあわせた展覧会が行われることが多く、それが多くの来館者を惹きつけてきたわけだが、そこには現実的な理由もあった。原美術館には作品搬入口がなく、すべての作品は(来館者と同じく)玄関から館内へと搬入される。大型の立体や絵画、あるいは解体不可の巨大インスタレーションなどは搬入できず、必然的に展示スペースにあわせた作品展示とならざるをえない。
閉館後に活動拠点となる「原美術館ARC(現ハラ ミュージアム アーク)」は、この問題を解決できる施設でもある。
原美術館閉館後、上述の常設作品については「原美術館ARC」への移設が基本方針であると安田は語る。「(建築と一体化している作品であるがゆえに)事実上の再制作にはなるかと思います。まだ交渉中の作家もいますが、奈良美智、宮島達男、森村泰昌、ジャン=ピエール・レイノーの作品は確実に移築することが決まりました」。
移設先のハラ ミュージアム アークでは、現在展示に使っていないスペースを展示場所に転用する、あるいは開架式の収蔵庫を改装するなどの案が想定されているという。
「梅棹忠夫がかつて言ったように、ミュージアムはたんなる入れ物ではなく、メディアです。来館者と作品が出会う場所。2021年以降、場所は変わっても原美術館というメディアは続いていきます」。