|岡﨑乾二郎の認識― 抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜
(豊田市美術館、2017年4月22日〜6月11日)
この2010年代は、ちょうど100年という区切りにあって、美術史上に決定的な地殻変動が生じた1910年代を高精細に検証し直す好機となってきた。2012年の「Inventing Abstraction 1910-1925」(ニューヨーク近代美術館)もその一例であったはずだが、同展が前衛美術史を、いまだに葬られない進歩史観から解き放ち、アーティストたちの社会的ネットワークの地図として描き直そうとするものであったとすれば、それに対して本展での岡﨑乾二郎はむしろ、視覚を超えて作用する「モノ」の力こそが「抽象」の核心にあったとする。この認識に立てば、様式史としての編年史、記録が保証するだけの人間関係、グローバル/ローカルの線引きなど、いかようにも狂う。この展示は、一方で歴史資料のアーカイヴ化の意識が全面化し、他方で「新しい唯物論」が標榜される時代に、別の「同時代性」の歴史的星座を描くすべを惜しげもなく披露していたと思う。
|カミーユ・アンロ 灼熱の日々
(パレ・ド・トーキョー、2017年10月18日〜2018年1月7日)
国外の展覧会に触れるのは慣例に反するかもしれないが、パリでのカミーユ・アンロの個展を挙げたい。フィリップ・パレーノとピエール・ユイグのそれぞれに大規模な個展がパリで開かれたのは2013年のこと、それらは90年代からの「関係性の美学」の集大成であると同時にその拡張の試みと映ったが、同じ年にヴェネチアで一躍名を上げたアンロには、そのまた先の美学への衝動、あるいはもっと端的に「自由」への意志があると感じる。古今の様々な表現語法やメディアを駆使しながら、イメージ/オブジェクト、人工物/自然物、虚構/現実、嘘/真実、歴史/日常……の境界をあっさりと超えてみせるその新たな神話的思考は、情報に囲繞された「日々」の再設計に賭されていた。
|恋せよ乙女!パープルーム大学と梅津庸一の構想画
(ワタリウム美術館、2017年6月1日〜18日)
ますます速度を上げて伸縮をくりかえすパープルームという「不定形の共同体」が、いよいよ都心に建つ現代美術のメッカを占拠した展覧会。会場の建築的構造のためとはいえ、最上階(=頭部)に主宰者・梅津庸一の個展を配し、上から下へと集団内のグルーピングと階層化=序列化を施したその展示は――各層をつなぐ吹き抜けも十分に活用されていたとはいいがたい――いわば「無頭の共同体」(バタイユ)以前の共同体構想にも堕しかねない危うさを孕んでいなかったか。しかし、歴史のアポリアを私的な生にオーバーラップさせながら、予期せぬ異種交配(=受粉)の多発から「構想画(=composition)」を立ちあげようとする彼らの運動が、今日の日本のアート・シーンを賑わせる数々のオルタナティヴな試みのうち、もっとも高度な実験のひとつであることは、いまや誰の眼にもあきらかだ。