2017.12.26

2017年展覧会ベスト3
(インディペンデント・キュレーター・長谷川新)

数多く開催された2017年の展覧会のなかから、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。今回はインディペンデント・キュレーター長谷川新編をお届けする。

「第11回shiseido art egg」展 菅亮平展会場風景 撮影=加藤健
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|第11回 shiseido art egg 「In the Walls 菅亮平展」

(資生堂ギャラリー、2017年7月28日〜8月20日)

「第11回shiseido art egg」展 菅亮平展会場風景 撮影=加藤健

 菅亮平の個展は、資生堂アートギャラリーという非常にクセの強い空間を見事に自家薬籠中のものとした優れたものであった。迷宮のごときホワイトキューブを淡々と歩き続ける映像は、その靴音が会場全体に閉的循環構造をもたらしており、にもかかわらず、そこには同時に迷宮全体をメタに俯瞰する情報も併置されている。通常この引き裂かれは齟齬をきたすのだが、その引き裂かれをいったん会場の空間の歪さが回収し、それを再度偽装されたホワイトキューブへと走査することで解消(したかのように見せる)することに成功していた。ここまで見事な設計を筆者は今年他に観ることがなかった。惜しむらくは会場で配布される作家自身の言葉がこの大胆に構築されたクリアな閉鎖空間に曇りを入れてしまっていたことである。

|福岡道雄 つくらない彫刻家

(国立国際美術館、2017年10月28日〜12月24日)

「福岡道雄 つくらない彫刻家」(国立国際美術館)展示風景 撮影=福永一夫

 福岡道雄は作品が「つくれない」自縄自縛の苦しみの中で、それでもなんとか「つくる」ことを選択すべくあえて「つくらない」という態度にたどり着いた作家である。いわば制作の「潜勢力」の可視化の不可能性への対峙。一定期間集中的・規則的に制作を続け、あるタイミングできっぱりと次のシリーズへと移行するその制作スタイルが、回顧展というフレームにおいて奏功しており、月並みな言い方ではあるが「作家の全体像、一貫した意志を知る」うえで非常に貴重な場として機能していた。一部の映像作品のフィルムなどが紛失したことはあまりにも惜しい。今後は、彼のコンセプチュアルな側面と彫刻的側面その両方に対して、より仔細かつグローバルな視野からの検討が必須であろう(その際には、彼自身が紡ぐ優れてシビれる文章との攻防が待っているはずだ。関心のある方はぜひ一読を勧めたい)。

|没後40年 伊藤久三郎展―幻想と詩情

(横須賀美術館、2017年11月18日~12月24日)

「没後40年 伊藤久三郎展―幻想と詩情」(横須賀美術館)展示風景

 伊藤久三郎の展覧会は、「戦前 / 戦後」という歴史的な断絶においてあくまで過去のこととして追いやられている日本のシュルレアリスム絵画を、より大きな枠組みの中で再定位することの可能性を強く感じるものであった。彼自身の実践(未発表のドローイングから、戦後一度断筆してからの盛り返しまで)にも言及したいのだが、ここでは以下の問題提起をしておきたい。手を替え品を替え息を吹き返す「絵画の復権」なる動きは、絶えず先行世代との断絶を前提としており、その起爆剤としてつねに海外の作家(70年代末のステラや、90年代のタイマンス、ドイグ)が参照されることが常態化している。ゼロ年代の絵画ひとつとっても、「作家の内面の発露」「マイクロポップ」といった評とは別に、伊藤をはじめとするシュルレアリスム絵画の実践とその達成と比較して考えるということもまた実りあることではないだろうか。