EXHIBITIONS
金村修 展|SKELETON GOATS DUST STORMS
MEMで「金村修 展|SKELETON GOATS DUST STORMS」が開催されている。
金村修は1964年東京都生まれ。92年から都市風景を撮影し続け、東京、ニューヨークなどで20回以上の個展を開催。96年「ニュー・フォトグラフィー12」(ニューヨーク近代美術館)、97年「絶対風景」(横浜美術館)、2004年「Rencontres Internationales de la Photographie d’Arles」、「2006 Venice Architecture Biennale」、19年「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の記録」(埼玉県立近代美術館)など多数の展覧会で作品を出展。近年は写真のみならず、映像やコラージュ、ドローイングなどにも制作は広がり、25年「総合開館30周年記念 作家の現在 これまでとこれから」(東京都写真美術館)でまとまって展示された。1997年に日本写真協会賞新人賞、第13回東川町国際写真フェスティバル新人作家賞、2000年に土門拳賞、2014年に伊奈信男賞を受賞。
本展では、北京で撮影された未発表の写真群に注目し、同名の写真集とあわせて初公開。今回の展示に寄せて、金村は次のように述べている。
「夏季オリンピックで盛り上がっていた2008年の北京の郊外を撮影してほしいというZEIT-FOTO SALONの石原悦郎の要請に応じて撮影された。北京郊外は予想以上に荒涼とした風景で、密室映画の先駆的存在だった若松孝二の『処女ゲバゲバ』でのだだっ広い富士山麓の風景を思い出させた。『処女ゲバゲバ』での富士山麓の何もない荒野は、外部の無い巨大な密室を思わせ、主人公の星と花子はまるで荒野という風景に閉じ込められているようにみえる。風景とは人間が発見したものでありながらも、私たちをその風景に閉じ込めるのだ。広大な富士山麓の風景の中で、私は風景によってつくられた存在であり、私が風景を見ているのではなく、風景に私が見られている。カメラによって撮られた風景は、私と世界に先立つ、非人称的な風景であり、私と世界の境界として現れるだろう。星と花子はどこにも属さない荒野という境界の上で十字架に張り付けにされる。
カメラは風景をつくり出す装置でありながらも、カメラがつくった風景に人間が復讐されるのではないだろうか。写真は空間を四角いフレームに収めることで世界を風景化し、さらに世界を覆い尽くそうと、反復と転移と増殖が繰り返しながら、折り重なるように沈殿していく。今度は人間が写真の中に閉じ込められるのだ。
『処女ゲバゲバ』は風景に復讐される映画であり、私たちの視覚の中に収まっていたようにみえた風景が、反対に私たちを閉じ込める。私とは風景の中の一部でしかない。荒野で十字架に張り付けにされた星と花子のふたりは風景の一部でしかなく、最終的には風景に呑み込まれるのだ。『胎児が密猟する時』の白く塗られた均質なマンションの密室で胎児のように丸くなって死んでいく主人公、丸木戸定男のように、野良山羊しかいない草原の中で『SKELETON GOATS DUST STORMS』はゆっくりと窒息していく」(展覧会ウェブサイトより)。
金村修は1964年東京都生まれ。92年から都市風景を撮影し続け、東京、ニューヨークなどで20回以上の個展を開催。96年「ニュー・フォトグラフィー12」(ニューヨーク近代美術館)、97年「絶対風景」(横浜美術館)、2004年「Rencontres Internationales de la Photographie d’Arles」、「2006 Venice Architecture Biennale」、19年「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の記録」(埼玉県立近代美術館)など多数の展覧会で作品を出展。近年は写真のみならず、映像やコラージュ、ドローイングなどにも制作は広がり、25年「総合開館30周年記念 作家の現在 これまでとこれから」(東京都写真美術館)でまとまって展示された。1997年に日本写真協会賞新人賞、第13回東川町国際写真フェスティバル新人作家賞、2000年に土門拳賞、2014年に伊奈信男賞を受賞。
本展では、北京で撮影された未発表の写真群に注目し、同名の写真集とあわせて初公開。今回の展示に寄せて、金村は次のように述べている。
「夏季オリンピックで盛り上がっていた2008年の北京の郊外を撮影してほしいというZEIT-FOTO SALONの石原悦郎の要請に応じて撮影された。北京郊外は予想以上に荒涼とした風景で、密室映画の先駆的存在だった若松孝二の『処女ゲバゲバ』でのだだっ広い富士山麓の風景を思い出させた。『処女ゲバゲバ』での富士山麓の何もない荒野は、外部の無い巨大な密室を思わせ、主人公の星と花子はまるで荒野という風景に閉じ込められているようにみえる。風景とは人間が発見したものでありながらも、私たちをその風景に閉じ込めるのだ。広大な富士山麓の風景の中で、私は風景によってつくられた存在であり、私が風景を見ているのではなく、風景に私が見られている。カメラによって撮られた風景は、私と世界に先立つ、非人称的な風景であり、私と世界の境界として現れるだろう。星と花子はどこにも属さない荒野という境界の上で十字架に張り付けにされる。
カメラは風景をつくり出す装置でありながらも、カメラがつくった風景に人間が復讐されるのではないだろうか。写真は空間を四角いフレームに収めることで世界を風景化し、さらに世界を覆い尽くそうと、反復と転移と増殖が繰り返しながら、折り重なるように沈殿していく。今度は人間が写真の中に閉じ込められるのだ。
『処女ゲバゲバ』は風景に復讐される映画であり、私たちの視覚の中に収まっていたようにみえた風景が、反対に私たちを閉じ込める。私とは風景の中の一部でしかない。荒野で十字架に張り付けにされた星と花子のふたりは風景の一部でしかなく、最終的には風景に呑み込まれるのだ。『胎児が密猟する時』の白く塗られた均質なマンションの密室で胎児のように丸くなって死んでいく主人公、丸木戸定男のように、野良山羊しかいない草原の中で『SKELETON GOATS DUST STORMS』はゆっくりと窒息していく」(展覧会ウェブサイトより)。
