ARTISTS
レンブラント・ファン・レイン
Rembrandt van Rijn
レンブラント・ファン・レインは1606年オランダ・ライデン生まれ。製粉業者の裕福な家庭で育ち、ライデン大学に進学するも、数ヶ月で退学し画家の道を志す。イタリアでの留学経験を持つ画家ヤコブ・ファン・スワーネンブルフに学んだ後、24年にアムステルダムに出て、著名な歴史画家ピーテル・ラストマンに師事。同年にライデンに戻って工房を構え、18歳で画家として独立する。ライデンでは兄弟子のヤン・リーフェンスと切磋琢磨し、しばしば共同制作を行うこともあった。両者が「ラザロの復活」を題材として制作した1630年頃の作品は、同じ画題を扱いながらもそれぞれの技量を感じさせ、レンブラントの評価を高める一作となった。
さらなる名声を求め、31年にアムステルダムに移住。画商ヘンドリク・アイレンブルフの支援を得て、肖像画家として成功する。32年にはオランダ発祥の集団肖像画を初めて制作。出世作ともなった《テュルプ博士の解剖学講義》(1632)は、人物の位置を左右対称とするのが基本の集団肖像画に対して、イエス・キリストの周囲に脇役を立てる宗教画の構図を参考にしているところが特徴のひとつである。34年にヘンドリクの姪で名家の娘・サスキアと結婚。同じ頃、オランダ総督から大型絵画の連作「受難伝」の依頼を受けるなど人気画家としての地位を確立する。
42年に代表作《夜警》を制作。隊長の号令に従って市民射撃隊が出発する場面は、じつは昼の出来事で、当初は《フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊》というタイトルで世に出たが、保護用のニスが劣化して黒く見えたことから《夜警》の名が一般化した。本作では、中央に立つ隊長と副隊長を際立たせる明暗の対比が、画面全体を劇的に演出している。いっぽうで、隊員一人ひとりの顔がはっきりしないと不満の声も上がった。傑作誕生の同年、最愛の妻・サスキアが夭折。公私ともに陰りを見せ始め、56年にはアムステルダム市に破産を申告するが、版画の名作《3本の十字架》(1653)や《病人たちを癒すキリスト(百グルデン版画)》(1648)が制作されたのもこの頃。画家の創作意欲は失われておらず、むしろ画業の最盛期と重なる。
55歳のとき、アムステルダムの市庁舎に飾る絵の依頼を受けて《クラウディウス・キウィリスの謀議》(1661〜62頃)を制作。しかし最終的には返却されてしまい、たびたび作品の受け渡しが難航するようになる。63年に2番目の妻・ヘンドリッキェが、68年には一人息子のティトゥスが死去。またレンブラント自身も視力が低下したことから、全盛期に比べて作品の点数が減少する。晩年は初期の細やかな筆運びから一転し、油絵具の厚塗りにより立体感のある、光をまとった画風へ。そしてより内省的な世界に関心を向け、神秘的な《ユダヤの花嫁》(1663〜65頃)や、見る者に感情移入させる《放蕩息子の帰還》(1666〜68頃)を手がける。遺作は《シメオンの祝福》。69年没。
レンブラントについて特筆すべきは、市民主体の経済大国であった17世紀オランダで家財としての風俗画や風景画、静物画が求められたなか、作中に物語性を追求したことにある。また優れた版画家でもあったレンブラントはエッチングの発展に貢献し、版画においても光と影を巧みに表現。自画像は生涯に70点以上も残しており、晩年の《自画像》(1669)のまなざし温かく達観した姿は、人間の内面を見つめ続けた画業の境地を垣間見せる。
さらなる名声を求め、31年にアムステルダムに移住。画商ヘンドリク・アイレンブルフの支援を得て、肖像画家として成功する。32年にはオランダ発祥の集団肖像画を初めて制作。出世作ともなった《テュルプ博士の解剖学講義》(1632)は、人物の位置を左右対称とするのが基本の集団肖像画に対して、イエス・キリストの周囲に脇役を立てる宗教画の構図を参考にしているところが特徴のひとつである。34年にヘンドリクの姪で名家の娘・サスキアと結婚。同じ頃、オランダ総督から大型絵画の連作「受難伝」の依頼を受けるなど人気画家としての地位を確立する。
42年に代表作《夜警》を制作。隊長の号令に従って市民射撃隊が出発する場面は、じつは昼の出来事で、当初は《フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊》というタイトルで世に出たが、保護用のニスが劣化して黒く見えたことから《夜警》の名が一般化した。本作では、中央に立つ隊長と副隊長を際立たせる明暗の対比が、画面全体を劇的に演出している。いっぽうで、隊員一人ひとりの顔がはっきりしないと不満の声も上がった。傑作誕生の同年、最愛の妻・サスキアが夭折。公私ともに陰りを見せ始め、56年にはアムステルダム市に破産を申告するが、版画の名作《3本の十字架》(1653)や《病人たちを癒すキリスト(百グルデン版画)》(1648)が制作されたのもこの頃。画家の創作意欲は失われておらず、むしろ画業の最盛期と重なる。
55歳のとき、アムステルダムの市庁舎に飾る絵の依頼を受けて《クラウディウス・キウィリスの謀議》(1661〜62頃)を制作。しかし最終的には返却されてしまい、たびたび作品の受け渡しが難航するようになる。63年に2番目の妻・ヘンドリッキェが、68年には一人息子のティトゥスが死去。またレンブラント自身も視力が低下したことから、全盛期に比べて作品の点数が減少する。晩年は初期の細やかな筆運びから一転し、油絵具の厚塗りにより立体感のある、光をまとった画風へ。そしてより内省的な世界に関心を向け、神秘的な《ユダヤの花嫁》(1663〜65頃)や、見る者に感情移入させる《放蕩息子の帰還》(1666〜68頃)を手がける。遺作は《シメオンの祝福》。69年没。
レンブラントについて特筆すべきは、市民主体の経済大国であった17世紀オランダで家財としての風俗画や風景画、静物画が求められたなか、作中に物語性を追求したことにある。また優れた版画家でもあったレンブラントはエッチングの発展に貢献し、版画においても光と影を巧みに表現。自画像は生涯に70点以上も残しており、晩年の《自画像》(1669)のまなざし温かく達観した姿は、人間の内面を見つめ続けた画業の境地を垣間見せる。