ARTISTS

エドゥアール・マネ

Édouard Manet

 エドゥアール・マネはフランスの画家。1832年パリにて裕福な家庭に生まれる。44年に名門コレージュ・ロランに入学。勉学の傍ら、ルーヴル宮殿内に設けられた「スペイン絵画館」に通い、17世紀スペイン絵画に興味を持って画家の道を志す。しかし、息子が法律家になることを希望する父から反対され、説得するあいだ海軍学校への入学を目指す。48年、見習い船員としてブラジル・リオデジャネイロ行きの船に乗船。帰国して海軍学校を受験するも2度にわたって失敗し、ようやく父から画家となる許しを得る。49年、トマ・クチュールのアトリエに入門。同時期にオランダとイタリアを旅行し、ルネサンス期の画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオや、スペイン絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケスの作品を鑑賞する。56年に独立し、61年のサロンで《ギタレロ》《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》(1860)の2作で初入選。黒を基調とした簡素な構図と率直な描写はベラスケスの影響を受けている。

 幸先のよい結果から一転、63年のサロンで伝統的な画題を選んで出品した《水浴》(1863)が落選。ポール・セザンヌ、ジェームズ・ホイッスラーらを含む落選者の抗議に応じ、ナポレオン3世が開いた落選展で《水浴》のタイトルを《草上の昼食》に改めて展示する。いっぽう、63年のサロンでとくに評判だったのは、マネと同じ主題を描いたアレクサンドル・カバネルの《ヴィーナスの誕生》(1863)。伝統に則って艶かしい裸婦像を女神に重ね描き、その周囲にクピドを配したカバネルに対し、マネの《草上の昼食》はラファエロ・サンティとティツィアーノの作品の構図に基づくものの、顕著に娼婦を連想させ、品性に欠けるとして悪評を買った。しかしこれに屈することなく、続いて裸婦画《オランピア》(1863)を発表。娼婦にヴイーナスの典型的なポーズをとらせた挑発的な作品は、技法においても美化されていない平坦な肉体表現が非難された。辛辣な評価に耐えかね、一時イタリアに滞在。ベラスケスの肖像画に触発され、パリに戻って奥行きを最小限に抑えた《笛を吹く少年》(1866)や《死せる闘牛》(1864〜65か)を制作する。

 70年に普仏戦争が勃発。自ら国立軍に志願し、フランスの降伏に反発したパリ・コミューンが起こると、現場に赴いて凄惨な状況を《内戦》(1871〜73)や《バリケード》(1871か)に描き残す。内戦が沈下すると、再び画家として活動。73年のサロン出品作《ル・ボン・ボック》(1873)が成功を収める。74年の第1回印象派展に招待されるが、サロンで認められることにこだわり参加を辞退。この頃、エドガー・アラン・ポーの小説の挿絵や、ファンタン=ラトゥールの紹介で知り合ったモリゾ・ベルトの肖像画を描く。晩年は体調の悪化に苦しみながら、大作《フォリー・ベルジェールのバー》(1881〜)を手がける。83年没。

 マネの偉業はサロンに果敢に挑み、次世代の画家たちが自由に表現する土壌をつくったこと。スペイン絵画のレアリスムや日本美術の平面性を新たに取り入れながら、依然として伝統的な技法を下敷きに近代化する都市生活を描写した点は、自然に目を向けた印象派の画家たちとは一線を画すものの、一派の誕生に多大な影響を与えた。