『マネ』 ジョルジュ・バタイユ=著 マネ作品の可能性を汲み尽した比類なき芸術論
近代絵画におけるマネの革新性とはなんだったか。まずは、絵画が二次元性の媒体であることを強調する平板な塗りと色彩。それから《草上の昼食》《オランピア》で見られるような、日常空間に裸婦を描いてアカデミズムの決まりごとに抗したスキャンダラスな主題。前者は印象派を起源としてグリーンバーグのフォーマリズムにまで連なるモダニズム絵画の還元主義に、後者は古典絵画を典拠とする引用の手法や、ジェンダー論を含むポストモダニズム的な観点と結びつけて語られることが多かった。対して20世紀フランス哲学界の巨頭ジョルジュ・バタイユが『絵画論』(1955年刊、本書はその新訳)で披露するのは、上記のいずれにも属さない異端のマネ論だ。論旨は難解だが、訳者の江澤健一郎による解説やカラー図版も多数収録しており、バタイユ特有の「至高性」などの概念に不慣れな読者にもアプローチしやすい体裁である。
一読してまず驚くのは、マネの絵画が孕む不穏さの前に踏みとどまるバタイユの眼差しの強さだ。バタイユの炯眼は、マネという一画家の特異性のみならず、近代絵画の誕生期に失われたものと新たに到来したものとを同時に見晴らしている。宗教の権威が失墜した近代以降、人々を脱自の境地に導く宗教的恍惚は失われたが、芸術は宗教に代わって新たな「至高性」の探究を担った。近代絵画が集められた美術館にあっては「聖なるもの」は沈黙しているが、代わりに政治や神話とは無縁の威厳、「あり得る形態の途方もない戯れ」が出来する。そしてマネこそがこの転換期の芸術を切り拓いた先駆者なのだ。マネの絵画は観者の期待を裏切り、不在の感覚を突きつけ、主題の直接の意味を横すべりさせる。この主題破壊の操作をバタイユは生贄を殺害して変質させる「供犠」と同一視する。宗教が力を奮っていた時代とは別の至上の価値が、こうしてマネの絵画に宿る。大仰で危険な香りさえ漂う理論だが、しかし危険のない無味乾燥の芸術から何が得られるだろうか? バタイユのマネ論は現代の芸術の役割を根底から見直させる激しさをもつ。
論の終盤でバタイユは、マネの魅力は逡巡やためらいに由来するのではないかと主張する。私たちは完成形に至る前の作品が不確実な宙吊り状態にあったこと、画家が制作のさなかで「際限なき偶然」に幾度も直面していたことを想像しなければならない。過渡期の芸術作品こそ「誕生時の薄暗がり」に置き直すべきなのだ。これを踏まえるならば、本書はまさに、マネ作品の可能性を近代絵画誕生期の闇から汲み尽した比類なき芸術論と言えよう。
(『美術手帖』2016年11月号「BOOK」より)