中尾拓哉 新人月評第2回 可能な限り速く、できるだけ長く 田幡浩一「one way or another」展
チェス、花瓶、トランプ、梨、羽。即物的な題をもつ田幡浩一の静物画の前で、これらのモチーフを好んで描いた、かつての画家たちのことを想起していた。
並んでいる64組の静物画は、構図をそのままに、チェスの駒の色だけを入れ替えながら、繰り返し描かれたものである。チェス駒は三次元的な6種の形、白と黒の2色で識別される。形状の異なる駒は盤上ではなく絵画の奥行の中へ、ナイトが有機体としての形を主張するような構図で置かれている。2色で6種の駒をすべて描き分けるのであれば2の6乗、つまり64枚の静物画となるが、その数は事実、チェス盤(8×8)のマスの数にも等しい。
このような静物画をコマ撮りした映像では、白駒と黒駒が位置移動を繰り返し、光と影のように瞬くことになる。瞬間的な明滅のもと画面内に圧縮される、64か所に配置されたすべての駒の白と黒の完全なバリエーションが、10の120乗あるとされるチェスの局面の可能性そのものにみえてくる。描き分けた静物画を動画としてランダムに重ね合わせ、実際には連続していない無数の支持体を、一枚の絵画にしようとしている。
田幡がずれた画面をもつ絵画を描くのは、このような描き分けと重ね合わせの操作に通じるものである。準備された二つの支持体が、上下に一度あるいは二度ずらされながら、モチーフはそれら二つの支持体にまたがり一枚の絵画として描かれている。
ずれた絵画という、ささやかなクリティーク。例えば、支持体がずれることによって予定調和は避けられているが、予想できないほどに無意識を介入させるものではない。また、ずらされた支持体の上で対象が形の分解を引き起こしているにせよ、それは多角的な視点によって再構成されているのでもない。ずらされる支持体の中で対象同士は良い位置にあるよう構成されてはいるが、その幾何学的形態が全体的な構図を結ぶことはない。そして、モチーフがすばやいストロークで写し取られていることもまた、ずらされてしまえば対象の印象と光の移ろいをとらえるものとはならない。田幡は、まるでモダン・アートのイズムを逆流するかのように、一枚の絵画の中で消え去ってしまう前の絵画にたどり着こうとしているようである。
こうして動画と絵画、いずれにおいても、構成されつつある静物画の複数性を保持したまま、そして別に描かれる可能性を残したまま、支持体は最終的に一つのフレーム(絵画の矩形)へと閉じていく。別々の時計を重ねるような瞬間に、無数の場面が流れ込み、絵画は生成し始める。絵画が描かれるなかで時間と空間にしたがい、対象はしだいに静物になろうとするが、しかしそれは未だ許されていない。支持体の一つひとつに含まれている異なる時空間の絶えざる均衡を文字通り支えにし、一つのあり方と別のあり方は、穏やかに鋭く、退け合いながら、引き合っている。絵画が描かれるために擁する時空間の散逸は、負荷をかけずに収束され、描くことを繰り返すために必要な絵画の訪れは、可能な限り速く、そしてできるだけ長く、とどめられなければならないのである。
PROFILE
なかお・たくや 美術評論家。1981年生まれ。第15回『美術手帖』芸術評論募集にて「造形、その消失においてーマルセル・デュシャンのチェスをたよりに」で佳作入選。
(『美術手帖』2016年7月号「REVIEWS 10」より)