「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ」(東京都現代美術館、4月29日~7月21日)

2021年の脳梗塞発病以降、後遺症からの再起どころか、さらに新しい境地を切り拓くこの驚異的な造形作家の、最新形をも見せてくれた回顧展+新作・近作展として、この展覧会を挙げないわけにはいかないだろう。後半を構成する、展覧会の半分近くのスペースが割かれた新作・近作の、豊饒な自由闊達ぶりには、言葉を失うしかない。岡崎は常々、芸術作品それ自体が、人間の認識能力の枠組み自体を改変する(すなわち、作品が人間を凌駕する)という主旨の言葉を述べるが、前半の回顧展パートも含めて、そうした試みを一貫して現実化してきたことが、改めてよくわかる展覧会であった。作品に対して、観者が主体的に考えるというよりも、作品を見るという経験自体が、観者の思考を駆動させる作品であるため、少なくとも私は、観るだけでアタマもカラダもヘトヘトになりました……。
「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着」における、山城知佳子の《Recalling(s)》(アーティゾン美術館、10月11日~2026年1月12日)

《肉屋の女》(2012)以降、映像インスタレーションの形式を採用しつつも、物語映画としての形式を踏襲していた山城が、リニアな物語映画の枠組みを取り払い、メインは4チャンネル+補助的な2チャンネル、計6チャンネルの映像インスタレーションに取り組んだ新境地。とはいえ、これまでの作品同様、沖縄戦の歴史経験が、この作家の発想の拠点になっており、戦争、歴史、声、芸能、音楽、自然環境といったモティーフが編み込まれる点は、従来通りではある。けれども、沖縄の歴史経験に加え、山城の父が幼少期に在住していた、日本統治下のパラオ、そして東京大空襲といった、戦中の「別の」歴史経験もテーマとしつつ、それぞれの経験が、作品という「いま・ここ」において呼び交わされるという構想が現実化されたこのインスタレーションは、確かに新たな境地である。現下の国土において、沖縄は周縁的な地であるけれども、その地にもとづく想像力によって、「ここまで遠くまで飛べるんだよ」ということを、まざまざと見せてくれた。
「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」(東京国立近代美術館、7月15日~10月26日)

開催館の「作戦記録画」をベースに、15年戦争を美術やその他視覚メディアを多角的に検討する、周到に練られた展覧会として評判も高く、私も優れた展覧会であると思うのは、同様である。けれども、「チラシなし」、「図録なし」というのは、ニュースメディアでは「予算の都合」という説明になっているが、この学術研究的な企図に基づいた展覧会において、チラシはともかく、展覧会の重要な成果物でありドキュメントでもある図録が会期中に刊行されない(編集部注:「記録集」は来春公開予定)ことは、「異常事態」といっていい。仮に「予算の都合」だとしても、官民問わず、この展覧会に対して外圧がかかったか、東京国立近代美術館のガバナンス上における内圧(自主規制)がかかったか、と疑わずにはいられないのは、私だけであろうか。この優れた展覧会は、美術の、美術館の、そして美術史学の、手痛い「敗北」であることは、美術に関わる人間のひとりとして、この苦汁を忘れないでおきたいと思う。この結果は、本展を企画したキュレーターにその責を負わせることのできるものではないのは言うまでもないが、さりとて現下の日本国内の政治が、はたまたその政治状況に追従する社会が、と攻撃対象に憎悪を燃やしてもあまり意味があるとは思えず、この展覧会に対する「敵」をあえて指し示すならば、相も変わらず蔓延している、戦後日本の「空気」(山本七平)がそれである、という苦い認識とともに、2025年の、なんとも後味の悪いトピックをもって、私のセレクションを閉じることとする。
























