地元の中学校に進学後、運動会で走っていた齋藤さんを見た先生から陸上部に誘われた。その才能はすぐに認められ、県の大会で上位入賞を果たすまでに成長した。そして地元の農業高校に進学後も、駅伝選手として活躍。高校2年生と3年生のときには、静岡県代表として全国高校駅伝競走大会に出場した。とくに高校2年のときには全国6位という好成績を残し、周囲からはオリンピック出場も期待されたという。
しかし、齋藤さんの心にあったのは「家業である農業を継ぐのが当たり前」という思いだった。長男はすでに東京で学校の先生をしていたため、故郷に残るのは自分しかいなかった。周囲からの期待とは裏腹に、彼は高校卒業後、一度は浜松市内の衣料品会社に就職するものの5~6年で退職。退職金で畑をつくり、専業農家として、茶や米に加え、椎茸などを栽培する道を選んだ。
齋藤さんは農業に打ち込む傍ら、地域活動にも積極的に参加した。当時の掛川市長が創設した農家代表者グループ「塾長会」の代表を5年間務め、地元農業の振興に貢献した。また、農業協同組合の理事を6年間務め、掛川市の茶農家を代表して全国の大会にも同席するなど、その活動は多岐にわたった。25歳のときには、牧之原の茶農家出身で、学生時代に陸上をしていた妻・悦子さんと結婚し、3人の子供と7人の孫を授かった。地域に根ざした活動と家族の存在は、彼の人生を豊かに彩るものだった。



















