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櫛野展正連載29:アウトサイドの隣人たち 「死んだふり」の流儀

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第29回は、戦時中から引き揚げまでの記憶と経験をもとにポップな絵画を制作する、林田嶺一を紹介する。

文=櫛野展正

林田嶺一

 爆撃機が飛んで町に煙が上がる様子を描いた半立体的な絵画。特徴的なのは、作者がショールームや店のガラス窓越しに、外で行われている戦争の様子を眺めているということだ。それらの絵を初めて目にしたのは、2006年に滋賀県近江八幡市にあるボーダレス・アートミュージアムNO-MAで開催された展覧会「快走老人録 ~老ヒテマスマス過激ニナル~」の会場だった。昭和新山の生成過程を克明に記録し続けた三松正夫や「横浜の帽子おじさん」として一躍有名になった宮間英次郎など「超老人」たちの表現が並ぶなかで、満州から日本へ引き揚げるまでの幼児体験の記憶と体験をもとに描いた作品群は、ひときわポップで異彩を放っていた。

 作者の林田嶺一(はやしだ・れいいち)さんは、01年に「キリンアートアワード」で優秀賞を受賞したことで一躍注目を集め、2000年代後半からは前述の展覧会などがきっかけとなり、とくに「アール・ブリュット」の分野における企画展で多く紹介されるようになった人物だ。

林田のアトリエ

 北海道江別市に暮らす林田さんは、1933年生まれで今年86歳になる。旧満州国で3人兄弟の長男として生まれた。父親は京都大学を卒業後に朝日新聞の記者を経て、南満洲鉄道の調査部で勤務するようになり、母親は英語が堪能という、不自由のない裕福な上流階級の家庭で育った。父親の仕事の影響で一家は満洲から大連、ハルビン、上海、青島へと移住し、第二次世界大戦が終わるまでの12年間をアジア各国で過ごした。43年に青島で父親が他界したあとは、京城(現・ソウル)に生活の拠点を移した。終戦後の45年9月に最初の引揚船で福岡・八幡港へ帰ってきたあと、広島や大阪、名古屋など日本海側を列車で北上し、母の故郷である北海道増毛町で生活を始めた。

 一家を支えた母親は、その語学力を活かして札幌で北海道庁の職員となり、そこで進駐軍の通訳を務めた。小さい頃から絵を描くことが好きだった林田さんは、北海道留萌高等学校では美術部に所属して、本格的に絵を描き始めた。卒業後は戦没者遺児ということで優遇され、21歳から北海道庁に勤務。翌年には、全道美術協会が主催する団体公募展「第10回全道展」へ初出品を果たす。

引き揚げ時に留萌駅で見た女性。戦争の喪失感からトランプ占いをしていたという

 67年に開館した北海道立三岸好太郎美術館の創設に携わっていたが、70年代後半には同館の学芸員から「風景画や静物画ではなく、自分の生い立ちを描いたらどうか」と勧められたことで、林田さんは現在まで続くスタイルの戦争画を描くようになったというわけだ。

 「それまで林田さんに親身になってくれる人はいなかったから、その学芸員の言葉に素直に従ったんだと思う」と、林田さんの側でサポートを行う彫刻家・原田ミドーさんは教えてくれた。

 「事務官を数年やってたんだけど、あいつは使い物になんねえぞってことで、道立図書館の事務次官に左遷されたわけ」と林田さんは言葉を添える。江別市の北海道立図書館にある窓のない地下の印刷室で約30年にわたり、退職まで勤めあげた。「あの馬鹿のところに行ったら徳はないよ」と周囲から嘲笑されるほど、仕事のできない人物としてレッテルを貼られてしまった林田さんだが、「だけど俺、痛くも痒くもなかったの。というのは、アートの本が腐るほどありますからね。印刷の仕事が終わったら死んだふりして、本を見て勉強してたの」と語る。仕事が終わってから、37年から41年頃までの自分の記憶が正しいかどうかを館内にある歴史書と摺り合せながら、丹念に答え合わせをしていたようだ。

裸婦の中にエゾジカが見え隠れするだまし絵のような油彩画

 林田さんは口癖のように「死んだふり」という言葉を多用する。両親や兄弟ともに一族の誰もが優秀な林田家のなかで、林田さんはつねに劣等感やストレスを抱えて生活していたのではないだろうか。そうした感情を回避するための手段こそが、林田さんが言うところの「死んだふり」だった。社会で虐げられることに対して、こころのバランスをとるために林田さんが必死でしがみついたのが、絵を描き続けることにほかならなかった。

 独学で絵を描いてきた林田さんにとって、所属していた全道美術協会は決して居心地が良いものではなかった。師事していた国松登や山下脩馬といった一部の会員からは激励を受けたものの、林田さんの表現は異端とみなされ、展覧会場にある階段の踊り場に展示されるなど、長年不遇な扱いを受けていたようだ。それでも、林田さんは絵を描くことをやめなかった。発表の場といえば、年に一度の「全道展」と時おり声がかかるグループ展だけ。

《レストラン天津飯店》

 66歳となった99年には、江別市にある大麻公民館で初個展を開催。そのときに撮影していた映像を2001年の「キリンアートアワード」に応募したところ、優秀賞を受賞した。ちょうどその頃、林田さんと親交を深めた原田さんは当時のことを「林田さんだけが世界規模で扱われていくことに対して、地元の人たちは煙たがり、林田さんの周りにいた人は、みんないなくなった」と振り返る。林田さんは、いつまで経っても正当な評価を得られないことに憤慨し、04年に全道美術協会を退会。みずから新天地を求め、関西で嶋本昭三が主宰していたAU(Art Unidentified)に入会した。著名な現代美術家たちのあいだで林田さんの表現は受け入れられ、「『林田、お前はいいぞ』とみんなが褒めてくれるようになったわけ」と笑みをこぼす。

 そんな林田さんは、現在も自宅2階にあるアトリエで精力的な制作を続けている。若い頃に描いてきた油彩画を見せていただくと、シュルレアリスムの影響を受け、裸婦のなかにエゾジカが見え隠れするだまし絵のような作品となっている。

《レストラン天津飯店》(部分)

 「俺は、体質的にポップ・アートが大好きなの。当時の上海は、アヘン戦争でヨーロッパからのポップが集まっていたもんだから、感覚的に混ぜ合わせたの。身体を導入するのが大好きな男なんだよね」。

 林田さんの言う「身体を導入する」とは、上空を飛ぶ少女や足が生えた飛行機など、戦争兵器に少女や子どもたちの手足をつけて擬人化した表現のことだ。戦争で殺戮兵器を操るのは成人男性であり、女性や子供たちは一方的に巻き込まれていく戦争被害者となっている。

 そもそも林田さんは、1937年に上海で家族と食堂で食事をしていたとき、第二次上海事変に遭遇している。幼いがために状況を理解できなかった林田さんにとって、窓から眺める戦禍の状況は「ディズニーランド」のような遊び場に見えたそうだ。中国がアヘン戦争でイギリスに敗北し、南京条約によって開港した上海租界では、ヨーロッパから多くの文化が流れ込み、林田さんはそこで異文化が混在して生まれたポップ・アートを肌で体感することになった。そして、戦時でもハイレベルな生活を送っていた林田さんにとって、夢のような大陸での生活と、引き揚げで母親の実家に戻るまでに目にした日本の惨状とのギャップは凄まじいものだったはずだ。そうした幼少期の強烈な記憶とそのときに感じた素直な感情とが交差し、アッサンブラージュとなって独自の表現を生み出しているというわけだ。

焦土と化した広島の光景

 近年では、引き揚げ体験で見た焦土と化した日本の姿を数多く描いている。絵のなかで風景とともに描かれているのは、縄文時代の土偶だ。引き揚げの際に乗った列車で、食糧難の時代に農家のおばさんが大きなオニギリをひとりで食べていたという少年期の思い出を手繰り寄せ、そこに女性や生産神の象徴でもある「土偶」の姿を重ね合わせる。

 いっぽう、立ち寄った京都では、多くの人命が失われるなかで戦火を免れた寺社仏閣を目にし、戦争なんて馬鹿げていると子供心に憤慨した。女性や子供が犠牲となり、歴史的遺産だけが残されるといった状況に、ポップ・アートの力を借りて「身体を導入する」ことで、林田さんなりに戦争が意図的に操作されていることに対して、風刺を展開し反戦を訴え続けている。

 「普通だったら80歳過ぎたらアートなんて描かないよね、俺は本当にバカたれなんだわ、おかしいんだよね」と戯ける林田さんは、今日も黙々と絵を描き続けている。いつまでも死んだふりを続けている林田さんの真価に、いったい世間はいつ気づくことができるのだろうか。

左から林田嶺一、原田ミドー

編集部

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