AdvertisementAdvertisement

地と図の反転を体感させる装置──十和田市現代美術館

『地域アート 美学/制度/日本』などの著書で知られる批評家・藤田直哉が青森県内にある5つの美術館・アート施設を巡る5回連載。第2回はコミッションワークによる常設展示が中核となった十和田市現代美術館を紹介する。

文=藤田直哉 撮影=西川幸冶

十和田市現代美術館
前へ
次へ

 十和田市現代美術館は、非常に大型でわかりやすい現代美術作品を体感でき、直感的なわかりやすさによって多くの人を楽しませることができると同時に、建物・環境・作品が相互作用した特異な経験をすることのできる、極めて面白い場所である。美術ファン、建築ファンも、そしてどちらにもさほど興味のない観光客も楽しむことができるのではないか。

屋外とつながったホワイトキューブ──西沢立衛建築

 十和田市は、1855年に開拓が始まった、新しい土地である。青森全体の中では、後に言及する弘前のように歴史と伝統が折り重なっているというよりは、新天地という色が濃い地域である。

 その土地に、十和田市現代美術館がある。歴史や伝統、古典ではなく、「現代」と名のつく未来志向の芸術を促進する美術館があるに相応しい場所な気がする。そこにあるのは、ホワイトキューブと呼ばれる、真っ白な壁でできた空間である。建築家の西沢立衛は、『美術館をめぐる対話』の中で、ホワイトキューブを「非常に新築的な存在、処女的な純粋さをもった空間」(p15)と表現している。筆者が来訪したときには、新雪が周囲に積もっており、それが晴れた空からの光に照らされて、神々しいような清新さであった。

 ホワイトキューブとは、1929年に開館したニューヨーク近代美術館が導入し、それ以来美術館のフォーマットのひとつとなった、白い壁で構成された四角い空間のことである。しかしながら、十和田市現代美術館が特異なのは、美術作品を展示する際には作品が痛むので禁じ手である「窓」を大きく開けたつくりになっていることである。

常設作品のジム・ランビー《ゾボップ》(2008)

 これができたのは、作品が基本的に、常設展示のコミッションワークだからである。普通の美術館だと、施設があり、そこに様々な展示が入れ替わっていくので、汎用性のある建物にしなくてはいけない。だから窓などはあまり開けることができない。しかし、この施設は、常設展示のコミッションワーク(依頼して作ってもらう作品)中心なので、むしろ作品に合わせて建物を変えることができる。だから、部屋によっては、道路に向かった面がほとんどガラスの窓になっていて、外とつながっているような印象にすらなる。窓は、作品と光の関係などを計算して開けられており、時間や環境の変化と作品が呼応し合うことを計算しているようである。このような建物と環境と一体となって設計された美術を経験できることが、十和田市現代美術館の特異な魅力だと言っていいだろう。

 通りに向けて窓が大きく開いていて、外と中の境界が曖昧なようである。そして、美術館の前の公園や、町のあちこちにも作品が点在している。そのことで、町と美術館、作品とそうでないものの境界も曖昧になったかのように感じられる。南條史生が「展示室の床と外の地面が同じ高さで繋がっている」(p113)と指摘しているが、それも「境界」「垣根」を崩そうという意図からだろう。西沢が妹島和世とともに手掛けた金沢21世紀美術館よりも、十和田市現代美術館の方がフラットで境のなさにおいてはラディカルである。

アート広場に常設展示された草間彌生の《愛はとこしえ十和田でうたう》(2010)

 十和田市の「官庁街通り」という「日本の道百選」に挙げられている通りから官公庁が撤退し、空き地ができたことが、この美術館のプロジェクトの始まりであったようだ。その後、空き地にアート作品を並べる企画が発展し、建築のコンペの応募要項には「官庁街通り全体を美術館と見立てる」という言葉が使われる。つまり、屋外に並んだ美術作品と、屋内の作品を地続きに見せるような建築として、西沢建築はある。「視点を変えると、実は野外彫刻がたくさんあって、そのうちあるものはデリケートだから箱をかぶっているともいえる」(p119)と南條は表現しているが、確かにそのような連続性が感じられる建築である。

 西沢は「自作について」という講演で、十和田市を「明治になって開拓されてつくられた、歴史的なグリッド状の街です」と表現しているが、確かに十和田は、人工的につくられた川や、碁盤目状の区切りこそが印象的な街である。そのグリッドが、立体化し、スクエア(真面目)な区切りから躍り出て転がり出ているかのように、十和田市現代美術館のホワイトキューブ群はある。それは、次々と増築・増殖していく。実際、今年訪問した際には前回はなかったレアンドロ・エルリッヒ《建物―ブエノスアイレス》を展示する建物が増えていた(新雪を踏み分けながらその建物に向かう体験は、あまり経験したことのないものだった)。

大型の常設作品、レアンドロ・エルリッヒ《建物―ブエノスアイレス》(2012/2021)

地と図の反転──フレームの外のフレームの外に……

 大きなキューブを、土地にごろごろと転がしたかのような展示スペースが、ガラスの通路でつながっている。建物の中だけでなく、通路の外の庭にも作品は展示されており、気を付けてないと見逃してしまう(とくに山極満博、森北伸作品)。そして、美術館の前の公園にもたくさんの作品があり、まちなかにも展示があることから、作品/非作品の境界が曖昧になるように仕掛けられている。

 そこには、ジョン・ケージが《4分33秒》で、敢えてホールの中で何も演奏しないことで、環境それ自体を音楽として聴く耳を作ろうとしたのと同じような、「地と図の反転」を地域に対して起こそうとする狙いがあると言っていいだろう。何気ない「作品」を、美術館という「枠」の外にも見てしまうことで、地域の日常すら芸術作品を見るかのようなフレームで見ることに誘われてしまう、ということである。

 かつて、劇作家のブレヒトは、舞台上の演劇が虚構に過ぎないことをあえて意識させる「異化効果」を使い、現実で当たり前だと思っているものをそうではなく感じさせる効果を観客に与え、当たり前さや日常性に対する批判的な感覚を養おうとしたが──寺山修司らアングラ演劇がそれを受け継ぎ、舞台と日常の境界を破壊する試みとして受け継がれたが──ここでは、美術と建築によって、そのような異化効果、地と図を反転させたり、互いの特性を浮かび上がらせ意識化させるようなことが狙われているように感じられた。

 現代アートの魅力として「価値転倒」や「世界の見え方を変える」などということが言われる。これは感覚的ではなく観念的な操作なので、多くの人たちに「小難しい」と敬遠させる原因になっているのではないかと思う。しかし、十和田市現代美術館は、この観念的な(コンセプチュアルな)面白さの本質と機能を、剥き出しにゴロっと投げ出し、感覚的なわかりやすさと両立させることに成功している。現代アート入門に、この施設は最適だし、多分多くの人が単純に楽しめるのではないだろうか。

 前回の記事で、青森の現代美術館は「境界」のない展示空間を志向する傾向があると言った。しかし、十和田市現代美術館は、むしろその逆で、「境界」をこそ意識化させる。四角いキューブの、その輪郭線だけが剥き出しになったようなホワイトキューブの造形は、区切りの「フレーム」の機能そのものを露呈させているかのようである。

建物外観

 美術品が、美術館やギャラリーの中にないときに、美術と感じることができるだろうか。現代アートの難しい作品が、作家名もコンテクストも何もなく、農家の物置か何かに置いてあったときに、そう理解できる自信は、少なくともぼくにはない。美術を美術として感じさせるには「額縁」が必要なのである。それが文字通りの額縁である場合もあれば、美術館である場合もあり、あるいは批評家や学芸員などがその作家と作品の固有名詞を用いて織り成している言説空間であったりもする。もちろん、それがバカバカしいと思う向きがあるのは十分承知のうえで、そのようなフレームを用いた演出も、美や価値の源泉のひとつであることも事実だ。

 美術館、白い壁というフレームの中にあるから、作品だとわかる。では、屋外にあったらどうだろうか。どこまで作品と作品でないものの境界は引きうるのか。その境界線の引き方は正当なのだろうか。

 Arts Towada 十周年記念「インター+プレイ」展のために、目[mé]がまちなかにつくった《space》は、そのような「反転」をさらに「反転」させるような面白い作品だった。スナックが下にある普通の家屋をぶち抜いて、中にホワイトキューブをつくってしまうのである。ホワイトキューブが作品の額縁になるのではなく、普通の家こそが額縁となり、ホワイトキューブ自体が作品となってしまう。「額縁」「フレーム」による地と図の反転の眩暈というコンセプチュアルな快楽を、極めてわかりやすい造形で伝えようとした見事な作品である。

目による新作の《space》(2020)
《space》内に展示されている目[mé]《movements》(2019)

 作品を独立したものと見るのではなく、それが置かれる場、フレーム、そしてさらにその外にある地域、制度、世界……などなど、入れ子状のマトリョーシカのようになっている「環境」「関係性」つまり「関係論的な世界認識」に誘う仕掛けが、十和田の美術の思想として通底しているように感じられる。

 常設作品で言えば、マリール・ノイデッカーの《闇というもの》は、地と図の反転の感覚を大いに体感させてくれた。明るい美術館の中で、突然闇の空間が登場し、その中に森のジオラマが突然登場する。そこに現れている自然の崇高な風景を見ていると、思わず「この外に広がっている大自然の方がすごいんじゃないか」と価値転倒の気持ちに誘われるのではないか(そのように思わせること自体が、作家の凄さなのだが)。

常設作品のマリール・ノイデッカー《闇というもの》(2008)

 あるいは塩田千春の《水の記憶》は、赤い糸で複雑に織られたネットワークの森を見ているうち、それが象徴する「つながり」の感覚だけではなく、ある種の森の中にいるような複雑さ・ランダムさ・カオスさの魅力を視覚的に体感し、外に広がっている自然の魅力も認識するのではないか。ちなみに、ここで用いられているアイヌの模様らしきものが描かれた木の船は、十和田湖にあったものを持ってきたらしい。それが、いかなる来歴でそこにあったのかは明らかではないが、様々な歴史や人々の「つながり」への推測を誘われると同時に、屋外に放置されていたら価値を生まなかったかもしれないものが、美術館の中でこうして作品として展示されると別の見え方・価値を生むという不思議な効果への思索へとも誘われてくるだろう。

常設展示の塩田千春《水の記憶》(2021)

環境とやさしさ

 自然や環境、というと、野性の荒々しさみたいなもののイメージもどうしてもついてくるが、十和田においては、それを洗練された、解像度の高い優しさとして提示しなおそうという傾向も見受けられるのかもしれない。

 Arts Towada 十周年記念「インター+プレイ」展でのトマス・サラセーノ《熱力学の組曲》は、観客の動きによって巻き起こった風が、浮かんでいるバルーンを揺らし、バルーンにつられたペンがドローイングを生み出すという作品で、様々な物事が相互作用しているという環境の繊細さを身体的に体感させる装置であった。また、青森県十和田市出身の映像作家である水尻自子と、漆彫刻家である青木千絵の作品は、非常に繊細な優しさ、まろやかさの感覚を持った作品であった。環境や自然に対する敏感さ、鋭敏さが、繊細さや優しさへと解像度高く洗練されていくように育ってほしいというキュレーター側の願いが感じられるようである。

Arts Towada 十周年記念「インター+プレイ」展より、トマス・サラセーノの作品群

 おそらくそれは、建築家の西沢の考えとも近しい部分があるかもしれない。西沢は、建築やテクノロジーを含めた人間を取り巻く新しい環境を「新しい自然」と呼び、それを模索しているという(『続・建築について話してみよう』)。その「自然」とは「美意識とか、論理とか、歴史とか、そういういろんなことの総体で出て来るもの」(p80)だとも言う。ある種の直感的・感覚的なもののようで、快楽性などとも関連しているようである。

 西沢は、ヨーロッパの都市や建築、美術を例に出し、やはりその地域の歴史や文化や風土に根づいて新しいものは出てくる、古いものとの関係が重要である、との考えも示している。そのうえで、自分たちがつくるものも、その地域の歴史や固有性とのつながりを持たせなければいけないと感じているようであるし、自分自身の作品も「日本」という条件の影響を受けているのではないかと考えているようである(最初は海外などでそう指摘されるのが不本意だったらしいが、境界をつくらないあり方や、障子を通る光のような繊細な光の使い方などに指摘されているうちに、そう思うようになったという)。

 「四季の存在、高温多湿の自然環境、地震、宗教、コミュニティのあり方、日本的都市のつくられ方、いろいろなことからの影響があるだろう。アジア・モンスーン気候の中に位置し、二つの海に挟まれた日本列島の高温多湿な気象条件が、周辺環境に向かって開放された、風通しのよい建築を僕らが好むベースになっているであろうし、また、八百万の神に代表されるような非一神教的価値観、汎神教的世界観というものが、僕らの建築の非中心性、対等性、環境と建築が主従関係を超えてつながっているような状態、そういう建築のあり方に影響していると言えるかもしれない」(p209-210)。

 西洋と共通の、モダニズムなどの建築の教育を経て、ホワイトキューブといういかにも西洋的な装置を使いながら、そこに日本の伝統的な感覚・美意識を生かし直す。新しい環境の中に、古いものを、形を変えながら残し続けようとする。これまであったものの上に、それを否定するのではないかたちで、新しいものを付け加えていく。一見これまでと違ってしまっているように見えるものの中に、これまでのものを、回復させようとする。西沢の文化観からして、おそらく十和田市現代美術館にもこのような狙いがあるようにあるだろうし、それは現代美術という「新しいもの」を生み出そうとする施設と、地域との関係に対しても、色々と示唆をするのではないだろうか。

常設作品のロン・ミュエク《スタンディング・ウーマン》(2008)と筆者

バラ焼きの価値転倒

 さて、美術館を見たあと、十和田に一泊することになり、十和田名物であるバラ焼きを食べるために、大昌園食堂に連れていってもらった(美術館から歩いてすぐ)。いわゆる高級店のような瀟洒な佇まいではない。バラ焼きという食べ物も、「B級グルメ」と言われるぐらいで、見た目が洗練されて美しいわけではない。肉とタマネギをワイルドに鉄板で焼くという調理法なのだが、味は極めて繊細で美味く、地元で取れるタマネギも甘くて臭さがない。しかも、安い。

 これもまた十和田の魅力。人は見かけによらないと言うが、店も食べ物の美味さも、見かけによらないのだ。むしろそこにお金をかけず、美味いものを安く提供するという本質で勝負してくる。「東京カレンダー」的な価値観に犯されているぼくは、ここでもまた地と図の反転するような価値転倒の驚きを味わうことになった。