『美術手帖』2021年6月号では特集「松山智一」にあわせて、ニューヨークを拠点とする様々な日本人アーティストに取材したインタビューを掲載している。
本記事では、荒川医のインタビューを公開。98年よりニューヨークを拠点として、多くの共同者やオーディエンスを巻き込みながら活動を展開する荒川。アーティストとしてNYの影響を大きく受け、現在はLAに居を移している作家に、作品と場の関わりを聞いた。
ギャラリーシーンに学び「日本人であること」を逆説的に考える
1990年代末に渡米し、パフォーマンスを中心に活動する荒川医。日本現代美術史に言及する作品を手がけてきた荒川が、2019年まで拠点としたニューヨークという土地の特徴や、そこでアートを学んだ経験を語った。
日米のカルチャーをつなげる
自らのアイデンティティや美術史を引用した舞台装置に、ほかのアーティスト、音楽家、美術史家、そして家族などを引き入れたパフォーマンス作品をつくってきた荒川医。2010年には若手の登竜門、MoMA PS1での5年に一度の大企画展「Greater New York」に、14年にはホイットニー・ビエンナーレに参加。近年は舞台をヨーロッパ、アジアにも広げ、17年にはミュンスター彫刻プロジェクトに選出。一昨年ニューヨークからロサンゼルスに拠点を移した荒川に話を聞いた。
「1996年にピースボートで世界一周旅行に参加して、3ヶ月で約20ヶ国を回り、ひとつの場所に長くいたいなと思ったんです。たまたまNYに友人のダンス公演を見に行く機会があって、そのときの印象としてすごく人が冷たく感じたのが、僕には心地よかった。97年当時、東京で一人暮らしを始めたのですが、僕はゲイなので、90年代末の日本のオープンでないLGBTQの状況に満足していなかったのもありました」。
その後、NYの語学学校に9ヶ月、ナショナル・アカデミーに半年間通った。演劇が好きで、漠然と照明を勉強したいと思い、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツ(以下、SVA)に入学することになった。
「最初の1年はデザインやファイン・アーツ、アニメーションなどいろいろな分野の人が一緒に基礎を勉強します。そのときにブラック・マウンテン・カレッジを卒業した先生が僕の作品を気に入ってくれて、何かデザイン的ではないものを見つけてくれたことで、ファイン・アーツに進んだんです。2000年あたりはゲイクラブでコートチェックのバイトをしていたんですが、そこでパフォーマンスをしたり、イベントを企画したりもしていました」。