現代美術の始まり、マルセル・デュシャンの小便器
現代美術の出発点となったのはマルセル・デュシャンの《泉(Fountain)》(1917)という既製品の男性用小便器を素材として使用した作品と言われる。このような既製品を表現の素材とする手法は「レディメイド」(readymade、英語で「既製品」を意味する)と呼ばれ、ジェフ・クーンズ、ダミアン・ハーストといった今日の現代アートシーンを代表するアーティストもレディメイドを用いた作品を発表している。
しかし、レディメイドについて、残念ながら著作権法との関係という点ではほとんど論じられていないのが現状だ。レディメイドの著作権法上の位置付けを明らかにすることは、伝統的な著作権の枠組みに必ずしも当てはまらない現代アート作品においても分析の手掛かりになる。非常に難しいテーマではあるが、ここから始めることにしたい。
「現代美術の父」とも言われるマルセル・デュシャン。2017年はデュシャンの作品でもっとも有名な《泉》が制作されてから100年、18年はデュシャン没後50年にあたり、多くの書籍が刊行されたり、展覧会が開催されたりした(*1)。《泉》は、1917年4月にニューヨークで開かれた第1回アメリカ独立美術家協会展(アンデパンダン展)への出品希望作品として実行委員会宛てに送付された(*2)。
見ておわかりのとおり、既製品の男性用小便器に「R. MUTT, 1917」という署名と《泉》というタイトルが付けられただけの作品である。アンデパンダン展は、出展料6ドルを支払えば無審査で誰でも作品を展示できるとしていたが、協会は議論の末に《泉》の展示を拒否した。何せ便器である。便器はおよそ芸術作品とは思えないということだ。
じつはデュシャン自身、このアンデパンダン展の運営委員のひとりであり、自ら後に雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号で抗議文を掲載している(*3)。その一節を紹介しよう。
マット氏が自らの手であの〈泉〉を作ったか否かは重要なことではない。彼はそれを選んだのだ。彼は平凡な日用品を取り出し、新しい題名と観点の下に置くことで、本来もっている実用的な意味が消えるようしむけた。すなわちあの物体に対して新しい思考を作り出したのだ。
デュシャンは、小便器の形状をデザインしてつくったわけではない。既製品を選んだだけである。既製品を選択する行為によってもアートは制作されうるのか。それまでの芸術概念とは明らかに反する《泉》を通して「芸術とは何か」が問われている。既製品の便器が《泉》というタイトルのもとで美術の文脈に置かれたとき、鑑賞者は、はたしてこれはアートなのだろうか、と考えざるをえなくなる。デュシャンは、1957年4月にヒューストンで行われた報告で、鑑賞者の役割が重要であるとも言っている(*4)。
芸術家は、一人では創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与するのである。 ーーマルセル・デュシャン、北山研二訳、ミシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン全著作』(未知谷、1995)286頁
アートの制作が特殊な技能を必要としない選択行為にまで拡張されるとき、アーティストと鑑賞者との違いは、アーティストが時間的に先行して対象を選んでいるということのみである。アーティストが選び、鑑賞者が選び、判断してアートが生成される。
レディメイドはポップ・アート、ミニマルアート、コンセプチュアルアートなどのその後の多様な美術動向の先駆けととらえられており、デュシャンが後のアーティストに与えた影響は計り知れない。
ジェフ・クーンズの掃除機
さて、次はジェフ・クーンズの作品《ニュー・フーバー・コンバーチブル ニューシェルトン・ウェット/ドライ・5ガロン ダブルデッカー》(1981-87)を見てみよう。今度は掃除機である。掃除機を展示して何を表現しているというのか、と不思議に思うかもしれない。美術評論家の椹木野衣はクーンズの作品について次のように述べる。
美術史において至上の価値とされてきたことはなにか? それは、過去の美術史に照らし合わせて決定的に「新しい」ことである。だとしたら、わたしは芸術の真理に忠実に、ただひたすら「新しい」ことだけを追求しよう。それも、考えられるかぎりもっとも純度の高いかたちで、と。 ここからクーンズは、まず、市販の家庭用電気掃除機を透明のプレキシガラスに収め、下から蛍光灯で神々しく照らし出して展示しました。もちろん、どこから見てもただの掃除機にほかなりません。しかし、もしもこの作品の購入者がケースを開けて、中の掃除機を一度でも使ってしまえば、もう、この作品は「作品」ではなくなってしまいます。この作品が「作品」たりえているのは、この掃除機が誰にも使われたことのないまったくの「新品」であって、その意味ではまだ「掃除機」になっていない神秘的な「なにか」だからです。クーンズはショーウインドーの中の未使用の商品だけがはらんでいるこの「なにか」を、純粋な「新しさ」と考え、アート作品というかたちに抽出しようというのです。究極の「新しさ」とはなにか? 意味的に新しいことなどというのは不純である。「新しさ」とはそれが「新品」であることにつきる、ということです。したがって、一度でもケースが開けられてしまえば、それはもう「究極の新しさ=究極のモダンアート=新品」ではなく、何の価値もないただの使い古しの掃除機になってしまうのです。いったい、これが魔法以外のなにものであるでしょうか? ーー椹木野衣『増補 シミュレーショニズム』(ちくま学芸文庫、2001)51-52頁
現代美術は、過去の美術史との接続を意図的に行う作品が多いことが特徴である(*5)。レディメイドを用いることはもちろんデュシャンへの接続を意味しており、デュシャンが「芸術とは何か」という問いを提起したのに対し、クーンズは「究極の芸術とは何か」という問いに発展させている。さらに、クーンズの作品には「重力/反重力」「生命」といった彫刻の古典的なテーマも含まれており、クーンズが掃除機を選択したことには明確な意図がある(*6)。
それではダミアン・ハーストの作品《Sinner》(1988)はどうだろう。今度は薬品を並べたキャビネットである。これがなぜアートなのだろうか。
ハーストは「生と死」を作品制作のテーマとすることで知られるアーティストである。我々は病気になれば、薬局に行き、薬を買う。薬をもってしても人の死は避けられないにもかかわらず薬を信じている。ハーストは言う。「人々は科学のことは気にするけどアートは気にしない。だから科学を借りた。別の言い方をすれば、人々は科学を信じるけどアートを疑う。だからそれをそのまま受け取って、科学を使った」(*7)。「科学(医学)と芸術」もハーストがよく取り上げるテーマである。
「薬品キャビネット」シリーズでは並ぶ薬品の中身は空であり、パッケージのみが展示されている。アートの外の世界では疑いなく信じられている薬品キャビネットは、ギャラリーの展示空間に持ち込まれた途端に人々が戸惑う対象へと変容する。
アートによる癒やしの可能性を信じるアーティストの強い意思が感じられる作品と言えよう。
また、薬は、現代の消費社会を象徴する商品でもあり、そのイメージを作品に用いることでポップ・アートの要素を含み、さらに最小限の色彩、デザインで構成されるパッケージは、ハーストが強い関心を寄せるミニマルアート(1960年代に影響力を持った形態や色彩を最小限に純粋化し、還元する美術動向)の要素も含んでいる(*8)。
ハーストの作品では、「生と死」「科学(医学)と芸術」といった一貫したテーマをベースとしながら、レディメイドによりデュシャンを参照するとともにポップ・アート、ミニマルアートといった美術史との重層的な接続がなされているのである。
レディメイド作品の4類型
レディメイドを用いた作品といっても実際は多様であるため、ここでは3つの視点から整理しておきたい。
視点1:素材の選択行為の比重が大きいか、素材により構成される形状(視覚的外観)に比重が大きいか
視点2:素材が1つか複数か
視点3:素材に手が加えられ物理的に既製品の実用性が消されているか、手が加えられてはいないが観念的に実用性が消されているか
「レディメイド」と言う場合、複数の素材を用いて一定の形状(視覚的外観)を構成する作品を含むことがある(視点1)。このような作品は、素材として既製品を使用しているだけで、伝統的な彫刻と変わりはないから、彫刻と同じように「美術の著作物」として取り扱えばよい。
「美術の著作物」に含まれるとされる生け花との比較がわかりやすいかもしれない(*9)。生け花も既存の素材(花)に手を加えて自己の表現とする表現形式であるから、複数の既存の素材を用いて一定の形状を構成するレディメイド作品と共通性がある。
具体例として、スボード・グプタの《Very Hungry God》(2006)を見てみよう。この作品では多数のステンレス容器などの日用品を素材として用いてスカルの形状を構成している。このような作品であれば、日用品(既製品)を素材としているけれども、生け花や彫刻と同じ扱いをすることに違和感はないだろう。
したがって、複数の素材を用いて一定の形状を構成するレディメイド作品は伝統的な彫刻と同じ扱いとなり、レディメイド特有の問題はない。難しいのは、素材の選択行為に比重が置かれた作品である。視点2と視点3を使って、次の4類型に整理したい。
類型①:手の加えられたレディメイドで、素材が1つのもの
デュシャンの《泉》に代表される類型である。男性用小便器は排水管を取り除かれている点で手が加えられ、物理的に実用性が消されている。
類型②:手の加えられたレディメイドで、素材が複数のもの
デュシャンの最初のレディメイドと言われる《自転車の車輪》(1913)が代表例である。自転車の車輪と4本足の椅子という複数の素材が使用されている。なお、この類型では素材が2つ以上のものを想定している。また、艾未未(アイ・ウェイウェイ)の《フォーエバー》(2003)もこの類型に当たるだろう。
類型③:手の加えられていないレディメイドで、素材が1つのもの
次に、既製品にまったく手が加えられていない類型である。デュシャンの《折れた腕の前に》(1915)を例として挙げることができる。
類型④:手の加えられていないレディメイドで、素材が複数のもの
クーンズの「ニュー・フーバー・コンバーチブル」シリーズ、ハーストの「薬品キャビネット」シリーズがこの類型の例である。
ここまではレディメイドについて掘り下げてきた。次回は、著作権法の基本ルールを解説しながら、今回の分類を前提に著作権法がレディメイドとどのように向き合うべきなのか、いよいよ著作権法から見たレディメイドの検討に入りたい。
*1ーー近時の文献として、マシュー・アフロン『デュシャン 人と作品』(フィラデルフィア美術館、2018)、平芳幸浩『マルセル・デュシャンとは何か』(河出書房新社、2018)、マルセル・デュシャン/カルヴィン・トムキンズ『マルセル・デュシャン アフタヌーン・インタヴューズ:アート、アーティスト、そして人生について』(河出書房新社、2018)、平芳幸浩/京都国立近代美術館編『百年の《泉》-便器が芸術になるとき』(LIXIL出版、2018)、中尾拓哉『マルセル・デュシャンとチェス』(平凡社、2017)、平芳幸浩『マルセル・デュシャンとアメリカ-戦後アメリカ美術の進展とデュシャン受容の変遷-』(ナカニシヤ出版、2016)などがある。
*2ーー経緯の詳細は、『百年の《泉》』62頁以下。ただし、事実関係については諸説あり、デュシャンが《泉》の作者ではない説まで存在する。
*3ーー『百年の《泉》』30-31頁に英語、88頁に日本語訳の全文が掲載されている。
*4ーー『百年の《泉》』154頁(河本信治)の解説が簡潔でありながらわかりやすい。「デュシャンのレディメイドは低いコーディングというか、意味の込め方の低い、実体のない画像/表象であり、デュシャンのレディメイドは鑑賞者が解釈を書き込むことにより作品として成立する。《泉》の過激さは、この関係性を美術作品すべてに展開することが可能なことを示したことではないでしょうか。すべての美術作品は作者の意図とは無関係な書き込み可能なオープンテクストであるということ、そして、美術作品の解釈は誘導された方向性以外のすべてに可能であるということかもしれません」(引用ママ)。
*5ーー小崎哲哉『現代アートとは何か』(河出書房新社、2018)207頁、村上隆『芸術起業論』(幻冬舎、2006)79-80頁
*6ーー「ジェフリー・ダイチ・インタビュー」(『美術手帖』2014年10月号)65頁の次の記述がわかりやすい。クーンズの彫刻には「重力/反重力」「生命」といったテーマがあるとしたうえ、「例えば、空気を入れて膨らます『空気ビニール玩具』を扱った作品群。このモチーフは、先にも触れた初期作で初めて導入されたもので、空気の注入によって形を成し、立ち上がる物体を通して、そこに重力の存在を示唆しています。ご存知の通り『重力』は彫刻において本質的かつ古典的な概念ですが、同作は人間が息を吹き込むことで物体が重力に反する力を得る、つまりこの花に命が宿ることを見せている。『ザ・ニュー』シリーズの掃除機は空気を吸い込む装置ですし、バスケットボールが水中に浮いている『平衡』シリーズは、胎内にいる子どものメタファーであり、生命の誕生を抽象化し表現しています。このようにクーンズは『重力/反重力』と『息を吹き込む=命を与える行為』を結びつけることで、彫刻のひとつの本質を明らかにするのです」と指摘する。
*7ーーハンス・ウルリッヒ・オブリストによるインタビュー(『美術手帖』2012年7月号)101-102頁
*8ーーArthur C. Danto, Damien Hirst’s Medicine Cabinets: Art, Death, Sex, Society and Drugs, Damien Hirst "The Complete Medicine Cabinets", Other Criteria/L&M Arts, 2010, p.5参照
*9ーー中山信弘『著作権法〔第2版〕』(有斐閣、2014)90頁