村田沙耶香『消滅世界』──正常な世界で繋がること ミヤギフトシ
村田沙耶香「消滅世界」(『文藝』2015年秋季号)は、パラレルワールドに存在する関東を舞台にした物語だ。村田は、近作においてセクシュアリティやジェンダー観、家族観が現実世界と異なるパラレルワールドを書いてきた。
葬式に代わり、亡くなった人の肉体を皆で食べる生命式が一般化し、式に集まった人々のなかで互いの合意を得た男女が「受精」をする「生命式」(『新潮』2013年1月号)、三人での恋愛が流行し始めた世界を描いた「トリプル」(「外国はもっと進んでいて、同性婚より先にトリプルの結婚、三人での婚姻を認めるべきだ、というデモが何度も起こっている」『殺人出産』所収)、人工授精・子宮が発達し男女ともに出産ができ、十人産めば一人殺せる、というシステムが確立している「殺人出産」(『殺人出産』所収)など。
どれも東京や近郊を舞台にし、文化・文明的な面では現実社会と非常に似通っていながらも、今僕が生きる東京とは確かに違う場所だ。
生まれ育った千葉を離れ東京で暮らす「消滅世界」の主人公。数十年前に起こった戦争のあと、人工授精が主流となり、夫婦間の性行為は近親相姦とみなされる。人々は「キャラ」と呼ばれる二次元の存在(アニメの主人公など)もしくはヒトを恋愛対象とし、夫婦であってもそれぞれにキャラもしくはヒトの恋人を持ち、夫婦間の関係はきょうだいのようなものとなる。
ヒトと付き合う人間のなかでも、セックスをするものは少ない。したとしても、避妊処置がされた男女の体からは、さらさらとした透明な液体しか流れない。そして、「トリプル」同様この世界でも同性婚は認められていない。女同士で結婚できたら楽なのにね、と、ある登場人物が言う。世界観を考えるとかなりねじれた発言だけれども、確かにそのほうがずっと合理的だ。
村田は作品のなかで「グラデーション」という言葉をよく用いる。ある価値観を持った世界が、違う価値観を持つ世界へと移行する過度期、その一点に自分たちはいるのだ、と彼女の作品における登場人物たちは認識している。
しかし、「消滅世界」が他作品と大きく異なるのは、そこで描かれる世界すらも次のステップに向けて移行を始めているということだ。つまり、旧態社会から小説の描く社会への移行は終わり、より完璧な社会への移行が始まっている。
「楽園(エデン)システム」と呼ばれる制度のもと管理・運用される「実験都市千葉」は、性愛も婚姻も家族制度も存在しない楽園=エデンで、出入りにはパスポートを要する。大人は性別問わず全員が妊娠可能な「おかあさん」となり、生まれた子供はセンターに預けられ、住人すべての愛情を均一に受けて育つ「子供ちゃん」となる。種の存続だけを目的とした、究極のクリーン環境だ。
村田作品の主人公は、そんなディストピア的世界のなかで他者との繋がりを探り、そして、世界と繋がろうとする。「消滅世界」で主人公は、「私は子宮で世界とつながっている」と信じている。
いくつかの小説では、ゲイと思わしき男性と女性主人公が、とても興味深いかたちで繋がってゆく。『消滅世界』では、中学校の同級生男子が同じ男性キャラに恋をしていると主人公が知ったとき、二人でそのキャラへの愛を証明しようと、儀式的なセックスを行う。ことの最中も、二人の恋心は同一のキャラに向かっている(これは、「トリプル」の主人公が構築した男2・女1の関係性とも重なる)。
「生命式」では、主人公の女性は急死した男友達・山本の生命式のあとで鎌倉に向かい、声をかけてきた見知らぬ男性と山本の肉をシェアして食べようとする。「生命式はちょっと」と言う男性はゲイで、つまりはゲイなので主人公と生命式の肉を食べ、それに伴う受精行為はできない。
ここで、パラレルワールドでも性的少数者は相変わらず生きづらいのだろう、ということに気づく。それは、「よりにもよって男の子二人となんて!」と叫ぶ「トリプル」の主人公の母親が放つ言葉からも端的に読み取れるように思う。とたんに、あ、なんだかリアルだな、と感じる。
受精したいわけではないと誤解を解き、山本の肉を一緒に食べたあと(「山本って、カシューナッツと合うんですね。」)、主人公が式で受精相手を見つけられなかったと知った彼は、よかったら使ってください、とガラス瓶に自分の精液を詰めて主人公に渡す(ここもまた、男2・女1の関係だ)。主人公は、それを持って海へと入り、どこか神秘的な行為を一人で執り行う。「長い時間を流れるこの星の上で、今、この世界のこの一瞬だけ存在する、正しすぎる正常の中」で。
書くと狂気じみているものの、この奇妙な交わりはある種の可能性を提示しているようにも見えた (もちろん、結局、同性愛者を利用しただけ、とも読めるけれど)。登場人物たちは繋がりを求め、実に奇妙なかたちで結びつく。「殺人出産」の最後、恍惚的な殺人は衝撃だけど、そんななかでも主人公は、「たとえ100年後、この光景が狂気と見なされるとしても、私はこの一瞬の正常な世界の一部になりたい」と考える。
「消滅世界」の前半、出身地である千葉が実験都市として隔離され帰れなくなったことについて、主人公の女友達は言う。「故郷がなくなるのはいいことよ。未来だけ向いて生きていけばいいんだから」と。それは、収容所での拷問を経験したジャン・アメリーがかつて言った「人はふるさとをもたなくてはならない。それを失うためには」(ジャン・アメリー著[筆者訳]『At the Mind's Limit』より)という言葉を思い起こさせながらも、意味としては真逆の、衝撃的な気づきだ。
「正常」と「狂気」という言葉が連発され、その意味が崩壊するようにさえ思える「消滅世界」の最後、主人公は性欲も家族愛も存在しない「実験都市千葉」に暮らしている。そこは彼女の故郷であった千葉ではなくなっている。
それでも彼女なりに、人との繋がりを模索し、子宮で世界と繋がろうとする。その手法はずいぶんグロテスクに見えるが、同時にとてもプリミティブなものだ(ここで初めて、女2・男1になっている、とも解釈できる)。それが正常であるか、僕に判断できるだろうか。そんな風に考えているうちに、彼女を含めた村田作品の主人公たちがそうであるように、僕たちもまたグラデーションのただなかにいるのだということに気づく。世界は横滑りしながらグラデーションを生んでゆく。
その先にある世界では、自分が正常であることを悟り絶望し、または恍惚を覚えるひとがいる。ときに、「生命式」の繋がりのような、とても不思議な関係性が生まれたりする。移行を続けるこの現実社会の先に見える、あまり明るくない未来においても、繋がりの小さな可能性は存在するのだ。そんな風に、村田の作品群は妙な希望を与えてくれる。
PROFILE
みやぎ・ふとし 1981年沖縄県生まれ。XYZ collectiveディレクター。生まれ故郷である沖縄の政治的・社会的問題と、自身のセクシャリティーを交錯させながら、映像、写真などを組み合わせたインスタレーションによって詩的な物語を立ち上げるアートプロジェクト「American Boyfriend」を展開。「日産アートアワード2015」ではファイナリストに選出。
http://fmiyagi.com