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ミヤギフトシ連載17:サマセット・モーム『人間の絆』 呪縛と織物、鉄の扉

アーティストのミヤギフトシによるブックレビュー連載の第17回。今回は、前回に引き続きイギリスの作家、サマセット・モームの作品を取り上げる。『人間の絆』(新潮社)は、モームの自伝的小説。ヨーロッパを旅して彼の足取りをたどった、ミヤギの目に映ったものとは。

La Villa Mauresqueにて 撮影=ミヤギフトシ
それこそは、彼クロンショーが、あのペルシャ絨毯を贈ってくれた理由であるように思えた。ちょうど織匠が、あの精巧な模様を織り出して行く時の目的が、ただその審美感を満足させようというだけにあるとすれば、人間もまた一生を、それと同じように生きていいわけだし、また彼の行動一切が、なにか全く彼自身の選択以外のものであるとしか考えられないとすれば、やはり同じように、その人生をもって、単に一片の模様意匠と観ずることもできるはずだ。(中略)人生の終りが近づいた時には、意匠の完成を喜ぶ気持、それがあるだけであろう。いわば一つの芸術品だ。そして、その存在を知っているのは、彼一人であり、たとえ彼の死とともに、一瞬にして、失われてしまうものであろうとも、その美しさには、毫も変りないはずだ。サマセット・モーム著、中野好夫訳『人間の絆(下)』(新潮社、2007)
ロンドン、テムズ川 撮影=ミヤギフトシ
ロンドンのメイフェア地区、かつてモームが住んだ建物 撮影=ミヤギフトシ

 イギリスのうち、ウェールズとイングランドで長らく違法とされた男性間の同性愛行為が合法化された1967年の「Sexual Offences Acts」から2017年でちょうど50年だった。私がロンドンに滞在していた間にも、テート・ブリテンで「Queer British Art 1861–1967」展が開催されていたほか、クィア映画の上映会や関連企画がロンドン各地で行われていた。自分の3/4はノーマルで1/4だけクィアである、と自分に言い聞かせていたらしいモームが生きたのも、男性間の同性愛行為が違法とされた時代だ。

 ロンドンに着いたのは8月初め頃。東京とは打って変わって涼しい、過ごしやすい陽気だった。最初の数日は街をあてもなく歩き回る。ロンドンにはモームにまつわる資料館などはなく、一時期住んでいたというメイフェアの建物にそのことを示す小さなブルーのプレートが掲げられているだけだった。それも、脇道に面した場所なのでほとんど目立たない。

ウィスタブル、高台から 撮影=ミヤギフトシ
ウィスタブル駅の林檎、8月 撮影=ミヤギフトシ

 週末はロンドンを離れ、モームが幼少期を過ごした海辺の小さな町ウィスタブル(Whitstable)へ。自伝的とも言える長編小説『人間の絆』(1915)において、主人公フィリップ・ケアリが陰鬱な少年時代を過ごしたブラックステイブル(Blackstable)のモデルになった場所だ。ロンドンから電車に乗って1時間半ほど。町を回っても、やはりモームにまつわる記念碑や資料館などは見当たらない。ロンドンに来てモームについてリサーチをしていると言うと、数人に不思議な顔をされたことを思い出す。彼は、忘れられ始めているのだろうか。小雨のちらつくどんよりとした天気で、『人間の絆』の少年フィリップが見ていたブラックステイブルの情景と重なる。パリでの幸せな幼少時代が両親の死によって終わり、彼は伯父の住む港町にやってくる。牧師である叔父は冷淡で、学校ではエビ足を理由にいじめられる。モーム自身も幼い頃から吃音に悩まされていたという。

 海辺の露店で、ウィスタブル名物だという牡蠣を食べて帰ることにした。小ぶりでえぐみと潮の味が濃い。殻の開け方が上手くないのか、ガリガリと破片が混じっている。シーズンではないらしいし、こんなものかとビールで流し込んだ。小さな駅のそばにはリンゴの木が生えていて、いくつもの小さな果実がほんのりと色づき始めていた。そのうちのひとつが落下して、標識に刺さっていた。ほかよりも鮮やかなその赤が強く印象に残り、写真に撮った。

 1914年、第1次世界大戦が勃発し、40になっていたモームは赤十字の医師としてフランスに赴き、そこで18歳年下のアメリカ人の青年ジェラルド・ハクストンと出会い恋に落ちる。しかし翌年、ハクストンは別に男性との同性愛行為の現場を押さえられ、国外追放となってしまう。同じ年、モームはジュネーヴにて参謀活動を開始している。どのような思いで、参謀活動に当たっていたのだろうか。彼の活動をもとに執筆された『英国参謀アシェンデン』(1928)においても、それについての記述は、もちろんない。遡って1895年、モームが21歳の頃オスカー・ワイルドの裁判があり、当時の同性愛者たちに大きな影響を及ぼしたらしい。モームも例外ではなかっただろう。テート・ブリテンの展示に、ワイルドが入れられた監獄の扉があったこと思い出す。美術展という場に突然現れたその「扉」に驚いた。牢獄の鉄の扉が、美術展で意味を持つ、そんな歴史がある国なのだと理解した。アメリカとはまた違うクィアの歴史があった。離ればなれになりながらもモームとハクストンは手紙を交わし続け、戦後ふたりはニューヨークで再開する。ハクストンはその後、長年モームの秘書として、そして恋人として寄り添う。44年、ハクストンは老いたモームを残して息をひきとる。

コートダジュール、La Villa Mauresque 撮影=ミヤギフトシ
コートダジュールの海 撮影=ミヤギフトシ

 参謀活動をしていた頃のモームの足取りをたどってジュネーヴに行った後(前回参照)、電車で南仏へ向かった。モームとハクストンが後年を過ごし、T.S.エリオットやイアン・フレミングも訪れたというコート・ダジュールの邸宅を訪ねてみたかった。地中海を見下ろす丘の上に建っているという。ウェブで調べるとどうやらヴィラはホテルになっているらしく、高かったけれど1泊してみることにした。ここにはなぜ? 到着した私にそう聞くスタッフに、ここでサマセット・モームが後年を過ごしたと聞いて、と伝える。スタッフはそう、と曖昧な笑みで頷いてとくに何も言わなかった。

「コート・ダジュール」のイメージそのものといった風景のなかを歩き、しかし、やはりそこにもモームの生きた痕跡を見出すことはできなかった。ホテルにすらかの大作家のことを伝えるものがないのは流石に奇妙だった。第一このホテルは高台に建っていない……。ふたたびモームのヴィラについて検索して、やっと理解した。自分がいまいるのは「Boulouris-sur-Mer」駅の「La Villa Mauresque」。モームの邸宅は「Villa La Mauresque」、最寄駅は「Beaulieu-sur-Mer」だった。こちらは現在個人宅のようで公開されていない。しかし、そこにはAvenue Somerset Maughamという彼の名を冠した道路もあるようだ。慣れないフランス語に、勘違いをしていた。ずっと探していた彼の痕跡、それが通りの名前として残っている。同じ南仏ながら、移動には数時間かかる。それに高いホテル代を払った後では移動費すら心もとない。諦めて寝て、翌日電車でパリに向かった。パリも、初めてだった。

パリ、アヴェニュー・フランクリン・D・ルーズヴェルト 撮影=ミヤギフトシ
パリの夕暮れ 撮影=ミヤギフトシ

 シャンゼリゼから脇に入った、モームが住んでいたという通りはまるで早すぎる紅葉が始まったように黄金色に色づき始めていた。生家はなくなっていて、別の建物になってしまっていた。また、彼の痕跡を見つけ損ねた。青年フィリップは会計士事務所での仕事に愛想を尽かし、画家になろうと一念発起してパリに留学する。そこで観たマネやモネの作品を、フィリップは理解できない。彼に物知り顔で印象派を解説するアメリカ人ファニー・プライスは、いつも同じ薄汚い服を着て、食事もほとんどとらず、フィリップをして「ひどい通俗精神の仕事」と言わしめた絵ばかりを描き続けている。しかし、金が底をつき、3日何も口にせず、フィリップに手紙を送った後、彼女は首を吊ってしまう。

 画家を目指したフィリップは自分の才能のなさに早々と画業を諦めロンドンに戻り、今度は医学を志す。ロンドンでの彼の暮らしも散々だ。ミルドレッドというウェイトレスの女性に恋をし、振り回され、彼女のためにお金を使い果たし、ついでに株に手を出して全財産を失う。叔父が死にさえすればいくばくかの遺産が手に入り学校に戻れると、フィリップは伯父の死ばかりを望みながら生きている。医学校に通えなくなって路上生活者状態になり、医学生時代に患者だったアルセニーに救われ、麻布問屋の案内係の職を得る。

晴れたウィスタブルの海 撮影=ミヤギフトシ
ウィスタブルの街並み 撮影=ミヤギフトシ

 ロンドンに戻った後、私はふたたびウィスタブルに向かった。晴れた日のウィスタブルを見たかった。9月になっていた。着いてみると、海は相変わらず濁っていて砂や砂利も茶色いけれど、水色の空と太陽光のおかげで陰気な印象はない。伯父の死によってフィリップは医学を再開し、アルセニーの娘サリーと結婚することになる。物語の最後、30歳の彼はナショナル・ギャラリーでサリーと待ち合わせる。場所は美術館の「階段を上がって、とっつきの部屋」。私が訪ねたとき、そこでクリス・オフィリの「Weaving Magic」展を開催していた。彼の水彩画をもとに、職人たちによって3年にわたって制作された巨大なタペストリーが描くのは、オフィリが暮らすトリニダード・トバゴと神話世界が混ざる、幻想的な海辺の風景だった。それは私に、『人間の絆』でも語られ、そして『月と六ペンス』で描かれることになるゴーギャンの作品を思わせた。そういえばフィリップに人生の意味を考えるヒントを与えたのも、名声を得ることなく死んでいった老詩人クロンショーがくれたペルシャ絨毯だった。フィリップが美術館に入ったとき、掲げられていたのはなんだろう。彼が絵に意識を向けることはない。ただただ幸せについて自分に言い聞かせるように考え続けている。

彼は、無数の無意味な人生の事実から、できるだけ複雑な、できるだけ美しい意匠を、織り上げようという彼の願いを、反省してみた。だが、考えてみると、世にも単純な模様、つまり人が、生れ、働き、結婚し、子供を持ち、そして死んで行くというのも、また同様に、もっとも完璧な図柄なのではあるまいか? 幸福に身を委ねるということは、たしかにある意味で、敗北の承認かもしれぬ。だが、それは、多くの勝利よりも、はるかによい敗北なのだ。サマセット・モーム著、中野好夫訳『人間の絆(下)』(新潮社、2007)

 ヨーロッパを旅し、数々のはみ出し者たちと出会い、傷つけ、傷つけられ、時には彼らの死を目の当たりにしたフィリップ。物語の最後、「ああ、僕は、幸福だ」と彼は言う。フィリップにそう言わせたモームの考える幸福とは、なんだろうか。モームの結婚生活は破綻していたし、後年は娘との関係も悪化した。自伝的とはいえ小説と作家の生を重ねるのは無益なことだとはわかっている。それでも、つい考えてしまう。そして、テートで見た鉄の扉を思い出す。「ああ、僕は、幸福だ」と言う以外ない時代だったかもしれない。『人間の絆』の原題は『Of Human Bondage』だ。直訳すると、人間の束縛について、だろうか。例えば、人生の無意味さも敗北も完璧な図柄であり幸福であると言うフィリップの言葉が、アシェンデンの言う「虚栄心」(前回参照)という呪縛によるものだったらどうだろう。

ウィスタブル駅の林檎、9月 撮影=ミヤギフトシ

 ひと月彼の足取りをたどって、結局何ひとつ知ることができていない気がした。煙に巻かれたような気分だった。ウィスタブルでの撮影を終えて、前回と同じ露店で少し高いほうの牡蠣を頼んでみたけれど、やはり少しガリガリした。まずい牡蠣を食べたり、ヴィラの場所を勘違いしたりしている私を見て皮肉な笑みを浮かべているモームの姿がちらつく。駅に戻る途中、何気なく見上げた先にひと月前に見たリンゴの木があった。標識に刺さったリンゴもまだあった。ずいぶんしおれて色もくすんでいる。東京に戻る日が近づいていた。

編集部

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