ミヤギフトシ連載14:黒川創『暗殺者たち』『きれいな風貌:西村伊作伝』交わった者たち、交わらなかった者たち

アーティストのミヤギフトシによるブックレビュー連載。今回取り上げるのは、明治時代の動乱を題材とした黒川創の『暗殺者たち』と『きれいな風貌:西村伊作伝』。二つの作品を結ぶ地である和歌山・新宮市を歩きながら、激動の時代を生きた「暗殺者たち」と彼らをとりまく人々に思いを馳せます。

ミヤギフトシ=文

王子ヶ浜 撮影=ミヤギフトシ
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 僕が熊野や新宮に興味を持ったのは、大逆事件や伊藤博文の暗殺について扱った黒川創『暗殺者たち』(新潮社、2013)、そして文化学院の創立者である西村伊作の評伝『きれいな風貌:西村伊作伝』(同じく黒川創著、新潮社、2011)を読んでからだった。『暗殺者たち』は、当時満州を巡る旅日記「満韓ところどころ」の連載を満州の新聞で始めていた夏目漱石の足跡や著書を手がかりに、伊藤博文を暗殺した安重根、そして大逆事件で捕らえられた運動家たちの思想、そして彼らをそのような行動に向かわせた明治の時代思潮を巡る小説だ。明治天皇暗殺を企てたとして大人数の社会主義運動家が一斉に検挙され死刑に処された大逆事件(1910年)、それに巻き込まれた社会主義者のひとりであり医師でもあった大石が暮らしていたのが新宮で、また、そこは西村の育った地でもあった。二人は親類関係にあり、大石は西村の叔父にあたる。

特急南紀1号の車窓から 撮影=ミヤギフトシ

 大石誠之助や西村伊作は明治時代、欧米の文化や新進的な思想を積極的に取り入れ、そして実践した。大石は『サンセット』という文芸誌を立ち上げ小説を和訳したり、太平洋食堂という洋食屋を始めたりするような文化人だった。そんな二人がいた新宮とは、どんな町なのだろう。新幹線で名古屋まで行き、そこから特急南紀1号に乗って3時間半。聞いてはいたけれど、東京から熊野はやはり遠かった。風景が山がちになり、いくつもの短いトンネルを抜けて電車は走る。迫りくる山と海の隙間に家々が並ぶ小さな集落が現れては見えなくなった。海は春の太陽を受けて光り、車窓の向こうは気持ち良い潮風がきっと吹いているのだろう。

新宮城跡から、熊野川を臨む 撮影=ミヤギフトシ

『暗殺者たち』には、二人の暗殺者と、暗殺者になり損ね死んでいった人々が描かれる。暗殺者とは、伊藤博文を暗殺した安重根、そして21歳の頃、塙二郎という国学者を暗殺した伊藤だ。

塙が、天皇退位の事例の典拠を江戸幕府から頼まれて調べていると聞きつけて、仲間ひとりといっしょに待ち伏せて、二人がかりで日本刀で斬り殺してしまいます。この塙についての噂は、実は誤解だったとも言われていますが。直前に、伊藤は英国公使館の焼き討ちもやっていて、とにかくこの時期の彼は激しいんです。天皇が中心となる国を作って、外国勢力を追い払わないと日本は滅んでしまうと、当時の彼は思いつめていたわけですから。黒川創『暗殺者たち』(新潮社、2013)

 それに対し、明治天皇暗殺を企てた管野須賀子らには伊藤博文や安重根のような強い動機はない、と語り手は言う。暗殺後に社会をどう変革していくのか、そんなことを考えた形跡がない、と。管野は、暗殺計画を聞いて、「いまの天皇は人望があるし、個人としてもいい人に思うので気の毒だけれども、この国最高の責任を負う地位にあるのだからしかたありません」などと言い、どこか間の抜けた印象すら受ける。日露戦争が終わり数年、第二次桂内閣のもと、社会運動や出版物の取り締まり強化が進められていた。

新宮、大逆事件の犠牲者顕彰碑 撮影=ミヤギフトシ

 そんな状況のなか、大逆事件が起こる。東京では管野須賀子や彼女と同棲していた幸徳秋水、そして新宮では大石誠之助らが逮捕され、12人が死刑に処された。大石のもとで薬局生見習いをしていた新村忠雄が、大石に秘密で青酸カリウムを、爆弾制作のため東京の管野らのもとに送っていた。それが発覚し、新村や管野らの主犯格だったメンバー以外も逮捕されてしまう。管野の元夫である荒畑寒村は1年前に投獄されていたため、大逆事件に巻き込まれることはなかった。出所後、寒村は拳銃を調達しひとり桂太郎首相の暗殺を計画する。しかし実行の際になって震えてしまい、結局何もできずに終わる。『暗殺者たち』が描く暗殺者たちとは、安重根と伊藤博文を除いて、どこまでも人間臭い暗殺未遂者たちだ。いまこの時代に、私たちの身近にいて不思議はない、そう思わせるような人々だ。

自分がもしも暗殺者になったらと、想像してみることは誰にだってありうることです。普通のことなんです。(中略)誰しもが想像のなかでは、やっていることなんです。 黒川創『暗殺者たち』(新潮社、2013)
新宮駅前 撮影=ミヤギフトシ
大石誠之助宅跡 撮影=ミヤギフトシ
大逆事件の結果から学んだことで、彼は、こうした極端を嫌う態度に至ったわけではないだろう。そうではなく、むしろ、これは、──過度の「正しさ」の主張というのはたまらない……(中略)この世に正義などはない、と思っているのではない。むしろ、「正義」への陶酔が、じきに自己欺瞞へと結びつくことを、若いうちから彼は敏感に感じ取り、それへの疑念が続いてきた。黒川創『きれいな風貌:西村伊作伝』(新潮社、2011)
新宮市内、アーケード通り 撮影=ミヤギフトシ
西村記念館 撮影=ミヤギフトシ
新宮の街と熊野灘 撮影=ミヤギフトシ
本宮、熊野川 撮影=ミヤギフトシ
「アイバは外交的な性格でいつも元気いっぱいだった。またユーモラスで、いつも冗談を飛ばしていたものだ。ヤンキー娘という感じで、日本的な感じは一つも受けなかった」ドウズ昌代『東京ローズ』(文藝春秋、1990)
熊野の山、日暮れ 撮影=ミヤギフトシ
文藝春秋社を創設した作家の菊池寛のもとでアルバイトを始め、1930年、23歳のころに正式に入社。編集部勤務となる。総理大臣も務めた犬養毅邸に出入りするようになり、そこで西園寺公一から英語版『プー横町に建った家』を送られ、さっそく和訳し、五・一五事件で暗殺により祖父を亡くした犬養家の子供たちのために読み聞かせた。 ミヤギフトシ「尾崎真理子『ひみつの王国−評伝 石井桃子』 雲の向こう側とこちら側」(ウェブ版「美術手帖」、2016)
名古屋行き特急南紀1号の車窓から 撮影=ミヤギフトシ