音楽と美術が接近していた時代の思考を再配置する。シリーズ:蓮沼執太+松井茂 キャッチボール(12)

作曲の手法を軸とした作品制作や、出自の異なる音楽家からなるアンサンブル「蓮沼執太フィル」などの活動を展開する蓮沼執太と、詩人でメディア研究者の松井茂。全14回のシリーズ「蓮沼執太+松井茂 キャッチボール」では現在、ニューヨークが拠点の蓮沼と、岐阜を拠点とする松井の往復書簡をお届けする。第12回では、松井が、蓮沼による展覧会「Someone’s public and private / Something’s public and private」の書簡を受け、小杉武久を論じる。毎週土・日更新。

文=松井茂

「Someone’s public and private / Something’s public and private」の様子 撮影=大野雅人

蓮沼くん

 「Someone’s public and private / Something’s public and private」(蓮沼くんによる訳は「ある者の、ある物の公共とプライベート」とのこと)、お疲れさま。プロジェクトがあってその数時間後にメールをもらえるって、なんだか贅沢ですね。ありがとうございます。そして、先ほど公開されたキャッチボール(11)の写真を拝見すると、ますます良い感じ。とか言いつつ、まさにいま、明日公開の往復書簡を書いてます。臨場感あります(笑)。蓮沼くんのフレッシュな感想に対して、ジャストアイデアで書きます。

 思い出したのは、小杉武久『音楽のピクニック』(書肆風の薔薇、1991)に収録されている、高橋悠治によるインタビュー「真空の柱」の一節(前後関係から切断して牽強付会な引用になっていますので、興味ある方は原典にあたってください、とあらかじめ断っておきます)。

小杉 空間を不定型に、というか、それはチャンスなんだ。空間は、最初からあるというわけじゃないのさ。だから空間があるというのは、それぞれがチャンスでつながって、空間ができてくる、ということなんだよ。

高橋 できてくるわけね。空間が最初からあるのではなくて、偶然の出会いが行われているうちに、空間ができてくるということね。

小杉 できてくるというか、意識されてくる。

高橋 それが不定型な空間なんだ。

小杉 いつも同じようにはできてこないもの。

 コンサートホールやライブハウスで音楽をする、美術館やギャラリーで美術を展示するということではなく、場も出来事も同時に生成するような表現を構想している。この時期のふたりは、この方向性を突きつめつつ、できあがってしまう「モデル」、ある意味で作品然とする形式を、自らが反復したり模倣したりすることへの違和感もこの後に続くのね。理想型を求めているだけでなく、小杉は「やっぱりヴァイオリンをいつも持っている自分自身がいるからね」と呟いてる。つまりは自己批判的に条件を切り詰めていくという私的な方向と、公共圏を切り拓いていく──フォンタナの《空間概念》みたいに文字通り切り開く感じ──両極へ向かう「モデル」が見出される気がします。

 蓮沼くんが「音楽家としての作品の意味」を説明したというのを読んで、なんかその意味はどういうことなんだろうと夢想したときに、この話を思い出したわけね。ここで引いた小杉さんのパフォーマンスは明らかに音楽なんだけど、何をしているのかわからなくなるすれすれのところに作品という「モデル」があると思う。そういう意味では、音楽家=蓮沼くんのボトルと水と人が、どういうところでタイトルのように「public and private」に関わるのか、改めて次回にうかがえればと思ってます。今回のプロジェクトにおいて、小杉が言っているところの、「できてくるというか、意識されてくる」それはなに?ということね。

 僕は「できてくるというか、意識されてくる」っていう小杉の言葉、わりと不思議な言い回しに思っていて、移動を意味する動詞「くる=来る」が使われているでしょう。その特徴が意味に含まれているわけだから、受動でもないけど能動でもない。「場も出来事も同時に生成」とかって簡単に書いちゃったけど、そんな客観的な話ではないはずよね、厳密には。自分の外側から「くる」なにかを認知し、自分がなにかを認識して「くる」過程なのだと思うのね。主観のことだけを言ってる。

 さらに小杉の言葉を引きますけど、「ある想定のもとに演奏が旅立つ」とアルバム『キャッチ・ウェーヴ』(1975)のライナーノートで書いてて、これまた魅力的な言い回しすぎるけれど、「できてくるというか、意識されてくる」を正確に言い換えていると僕は思っています。だから小杉と高橋が対話している空間の話って、作曲家と演奏家と観衆が、「ある想定のもとに演奏が旅立つ」ことに立ち会うってことなんだろうというと素敵ですが、実際にはすごく峻厳な態度ですよね。そして小杉にとって「旅」は重要なキーワードで、「真空の柱」で次のようにも話しています。

小杉 音楽という普通の概念じゃなくて、以前に、イヴェント、今で言うパフォーマンスみたいなことをやってたでしょ、上着を十分くらいかけてゆっくり脱ぐとか、そういう事柄がぼくの音楽のコンテクストの中にある。旅の中でいろいろな人やものと出会うという実際の生活から来るチャンスをモデルにしてゆくと、音楽もまた音を超えていく。音楽であるっていう一つの中心性を持っていることをはずれるね。音楽すら無目的な、アノニムな方へ持っていきたいというようなところがあるんだ。それが結局パフォーマンス、アクションを含めたようなものになっていく。だけど、今度はそれが芸術のモデルになり、そこからまた逃れたいという自分の意識が働いてくる。大体のところで一つの反芸術的な方法を求めるんだね。

 「できてくるというか、意識されてくる」「ある想定のもとに演奏が旅立つ」を組み立てる重要な要素に、小杉は「チャンス」を挙げてるよね。現代音楽の文脈で考えれば、それは普通に「偶然性」のことかなと思う。小杉や高橋と同世代の作曲家、松平頼暁の著書『20.5世紀の音楽』(青土社、1982)にあたると「偶然性」は4種類に分類されている。曰く、「Chance(偶然性)」「Indeterminacy(不確定性)」「Probability(確率)」「Alea(賭け)」。前者ふたつは、ジョン・ケージを中心としたアメリカの実験音楽による、結果を予測しない作曲手法。次は、ヤニス・クセナキスが作曲の過程に導入した手法(完成したスコアは確定)。最後は、ピエール・ブーレーズが詩人のマラルメを参照した「管理された偶然性」とも呼ばれる作曲手法で、演奏家が曲の部分で楽譜の選択を求める。

 以上わざわざ分類を確認したのは、小杉の「チャンス」はこれらの作曲手法とは別じゃないか?と言いたかったからなんだけど、なんか違うよね。そもそも「実際の生活から来るチャンスをモデルにしてゆく」という言い方ですでにわかっていたことだけど、「チャンス」が「モデル」、作品概念というわけよね。『音楽のピクニック』の「あとがき」にも「意識が空間/媒体を不定形な、無目的なものとしてとらえはじめ、そこからチャンス(出会い)の音楽が生まれる」って書いてる。この考え方は、音楽の文脈よりも、李禹煥の「出会い」に近いような気もする。

 前回は一柳慧《IBM》のこと書いたけれど、蓮沼くんの作家性、作品を通じて、僕は1960年代に音楽と美術がとても接近していた時代の思考を、再配置する契機を与えられてる気がしています。

 現代芸術が辿ってきた、ハプニング、パフォーマンス、プロジェクトに共通すると僕が考える特性のひとつは、ダイクシス=deixis(「いま・ここ・わたし」)なんですけど、蓮沼くんは、「ボトルの移動位置情報をドローイングで、音はフィールド・レコーディング、写真、映像」というダイクシスの記録=レコードを素材にする態度を明確にしていて、僕にはそれがなんだか新鮮です。もちろん、本来のダイクシスとしての価値を放棄してないか? とか、スタジオワークを前提としたレコード芸術が一般化してるのだからあたりまえじゃないかとか、ツッコミもあるでしょう。

 例えば小杉にとっての「チャンス(出会い)の音楽」は、記録すべきではないという作品概念の意味合いを持っているよね。しかし現実には、否応なく記録もスタジオ録音も存在してしまうわけね。実際、その音源を媒介に、僕は小杉の思想を考え、このメディアではダメなんだということを理解する矛盾もある。ちなみに小杉作品の冒涜と言っても過言ではない、酷い再演記録がYouTubeにいくつも見出されるけど、作品を考えたらこんなことしないだろうというタイプのものは、撲滅していきたい(これは本気ね)。

 計画を立てずに書きはじめて長くなってしまいました。往復書簡と言うことで許してください。つまり蓮沼くんの場合、一柳や小杉が追及したダイクシス性は、まずトンプキンス・スクエア・パークで一度、達成したのだと思うんだけど、それを素材にメディア・イべントに再編することも織り込まれているところが興味深い。スタジアムでビューイングするような拡張ではなく(いや、タイムズ・スクエアでということもありうるね! そういうのも期待してます)、アーカイブとしての私圏と公共圏が主題として浮上してくる感じね。今回は、思わず小杉に寄せてしまいましたが、蓮沼くんの活動を考えるときに、僕にとっては再配置したくなるところで、よい機会でした。

 小杉武久《Organic Music》(1963)を見ながら。

2019年5月5日 大垣
松井茂