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作品の政治性とラディカルさ、時間の見直し。シリーズ:蓮沼執太+松井茂 キャッチボール(9)

作曲の手法を軸とした作品制作や、出自の異なる音楽家からなるアンサンブル「蓮沼執太フィル」などの活動を展開する蓮沼執太と、詩人でメディア研究者の松井茂。全14回のシリーズ「蓮沼執太+松井茂 キャッチボール」では現在、ニューヨークが拠点の蓮沼と、岐阜を拠点とする松井の往復書簡をお届けする。第9回では、蓮沼がフェリックス・ゴンザレス=トレス、アルフレッド・ジャー、高松次郎、磯谷博史らの作品と自身の関心の接合点を語る。毎週土・日更新。

文=蓮沼執太

4月21日のニューヨーク Photo by Shuta Hasunuma

松井さん

 とても興味深いお返事ありがとうございました。テキストを読みながら、カミーユ・アンロの映像《Grosse Fatigue》を思い出していました。この作品は創世記に由来するストーリーがラップとともに語られていて、そのリリックと映像がシンクロすることによって、宇宙の誕生や生命の歴史などの大きな物語が私たちが毎日使用するコンピュータのデスクトップ上で語られる、という10分ほどの映像作品です。2014年にニュー・ミュージアムで彼女の展覧会があってこの作品も観たのですが、美術館でこんなに低音がしっかり出ている映像作品は珍しいな(笑)と思った記憶もあります。

 まずは、フェリックス・ゴンザレス=トレスの話からお答えしていこうと思います。松井さんとの会話の流れで軽々と「《Fluid Compositions》は彼の作品のリファレンス」と言ってしまいましたが、もう少し正確にお伝えしたいです。彼の有名な作品、キャンディの彫刻《untitled》では、パートナーのロス・レイコックとトレス自身の体重を足した重さのキャンディをギャラリーの床に置いて、観客は1個ずつ持ち帰ることができる作品です。または紙のシートが柱状に積んであって、それを観客が1枚ずつ持って帰る作品もあります。これらは、観客の参加によって、また時間が経過することによって変化していくような作品と言えますよね。その経験が観客に対して感情や知覚などの新しい発見を持たせてくれるような作品とも言えます。

 こういったものに僕は強くシンパシーを抱きます。たんに観客が参加することでかたどられる体験型、または参加型のアートとは全然違います。観客の介入より、本来持っていたはずの何かの感覚や感情を取り戻すようなこと、それを可能にするのはトレス自身のパーソナルな物語があるからこそ立ち上がると思うのですが、単純に僕がそれをリファレンスした、というのは、お話しているときに僕の作品を松井さんにわかりやすく伝えるために使ってしまいました。キャンディという物を通して彼が問うているのは資本主義システムであるわけで、その点を比較しても僕の作品のリファレンスとは言えないかもしれません。

 大切なのはワインボトルよりも中の水なんです。水というのは世界に循環しているもので、かたちが常々変化していくものです。大気中で蒸発すれば目に見えなくなり、凍ることにより氷となりかたちになりますね、当たり前ですが。ちなみに、蓮沼フィルで一柳慧さんの《IBM》を再演したときに僕が選んだメディウムは氷でした。これは人間にとって必要不可欠なマテリアルであり、僕は世界を想像するための大事なツールだと考えています。Pioneer Works(ニューヨーク)の個展での《Fluid Compositions》は観客がボトルを移動させることにより、会場のコンポジションが変化していくという作品です。そのボトルの中に入っている水は僕の体重と同じ重さ入っています。それが会期中に存在することで、自分自身も展覧会スペースに存在しているというメタファーでした。

 例えば、舞台の音楽を制作しているときによく考えることなのですが、音があることでステージの何かの存在を観客に印象づける、ということがあります。わかりやすく言うと、ステージ上手から下手にかけて音をパンニングさせて移動することによって、目には見えない気配をつくり出す。実際には何もないのに、音という存在があることで、ステージに物理的な虚構をつくり上げていきます。蒸発した水に関しても、同じようなことが言えると思っていて、目には見えないけどそこには存在している。そういった目に見えないメディウムについて考えていくことは、作品がかたちづくる様々な関係性を探るひとつの方法でもあります。またそういった発見や知ることに満足するのではなく、行為に移していかなければいけません。その行為というのは、何もつくり手だけの問題ではなく、このキャッチボールでたまに顔を出してくる「芸術の受け手」の問題につながると思っています。

 さて、トレス作品から感じるラディカルな部分はやはり政治性が作品に内在しているからですよね。公共の場所で僕が衝撃を受けたのは、アルフレッド・ジャーの《A  Logo for America》です。アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)で初めてニューヨークに行ったときにタイムズ・スクエアでこの作品を見ました。真夜中のタイムズ・スクエアが突然、彼の映像で囲まれていくことで、繁華街の雰囲気が一斉に変化して、作品を通した強いメッセージが公衆に向かって直線的に流れているさまは、とても刺激的でした。たんに現代美術作品をパブリックアートとして提示しているということに感銘を受けたというよりも、もっとむき出しに世界に対しての主張をしている作品に出会えたことが衝撃でした。ジャーのその他の作品やプロジェクトを観ていて考えさせられることがあります。それは、自分の作品という行為はどういう意味を持つのか?ということです。

 ジャーの作品は時に政治的と呼ばれますが、それは政治的な題材を扱えば政治的なアーティストというわけではまったくなく、そもそも芸術行為自体がすでに政治的なアプローチをとったものなのだということを感じます。僕の作品の中に《届かない声|beam of voice》というものがあります。2016年に制作した作品で、同年のスパイラル・ガーデンでの個展「作曲的|compositions - rhythm」で展示したものです。

 イスラム過激派組織のISILに拘束され、殺害されたとみられるジャーナリストの後藤健二さんが送ったメッセージを変調させた音声を単一指向性スピーカーで再生するこの作品は、オープンスペースな会場内の階段部分でこの作品を展示することで、通行人はその音には気付くことはできません。聞こえない声に耳を傾けるという姿勢だったり、世界には届かない音というのもあるんだなと感じたりしました。作曲や録音などの作品の中で、こうしたアプローチをとることは自分にとって難しいですが、ジャーなどの作品から感じ取れるラディカルなアプローチはつねに根底に持ち続けたいものです。

磯谷博史 視差的仕草(ブルー、レッド) 2016

 最後に。資生堂が発行している雑誌『花椿』の春号の特集で好きな写真集を一冊あげてください、ということだったので、高松次郎の『写真の写真』をセレクトしました(笑)。その系譜にあるわけではないですが、僕の友人に磯谷博史くんいうアーティストがいます。彼の近年の作品も非常に興味深く、人間が現代社会で生きていくうえで感じている直線的な時間を見直していくような作品です。出来事と出来事の間を創出させることによって、複数の時間をつくることに成功していると思っています。写真というメディウムを使って、自分自身の認識だったり、現在という時間への問いかけを感じるのですよね。いつもハッとさせられます。僕が近年取り組んでいる電子音楽や環境音を使ったアプローチの作品で、この手法にどこかヒントがあると感じています。

 アルフレッド・ジャーの息子さんはミュージシャンでニコラス・ジャーと言いまして、彼のプロジェクト「Against All Logic」のアルバム『2012 - 2017』は去年よく聴いたアルバムです。その中から「This Old House Is All I Have」を聴きながら。

2019年4月22日 ニューヨーク・ブルックリンの自宅より
蓮沼執太

編集部

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