まず笑い話みたいな話なんですが、IAMASの授業で「公共圏」という言葉を同僚が使ったとき、学生と話がかみあってなくて、なんかおかしいと思ったんです。よくよく齟齬のありかを探索すると、学生が「公共圏」を「公立であること」、つまり国立とか県立、市立の意味で認識していた。アートと公共圏の話は、国公立のインスティチューションに作品が所蔵されることについての議論と理解しているらしく、「所蔵されれば作品だ」みたいなトンデモ話になっていてショックでした。その学生に限っての「公」という文字の印象から起こる勘違いだったと信じたいところです(苦笑)。
蓮沼くんの《Fluid Compositions》は、ナディッフの記録映像の上映でしか見てないですが、とても素敵な作品だと思っていて、日本でもぜひ展示してほしい。素直に和めました。フォトジェニックだし。このあいだその話しをしたときに、リファレンスはフェリックス・ゴンザレス=トレスだという話がありました。あ、なるほど、と思ったんですが、この辺りへの関心、僕が解釈して書くのもなんですから、改めてうかがいたいです。よかったら、次回にでもよろしく。
ここのところ僕は連続的に羽島市の坂倉準三の建築にこだわって、パブリックの話をしてきたわけですが、こだわってたのは、広場もさることながら、羽島市庁舎が竣工時に公民館と図書館を持っていたことに注目してたのかもしれません。エラソーに言うと馬脚を晒すことになりそうですが、思うに図書館こそパブリックの象徴というか、原型だと思うんです。いわゆる共有=シェアの原型ですよ(以前そんなことを書いた。「メディアとしての図書館」)。1冊の本を読むときだけ読みたい人が所有し、読み終わったら戻す。もう一度読みたくなったら、また借りに行ける。当たり前のことだけど、パブリックの思想であり、インターフェイスとしての場、そのものだよね。
コンピュータでタイム・シェアリング・システムってあるけど、あれもたぶん、図書館の書籍の共有がモデルなのかなとか思う。そんな誤読かも知れない延長で話を展開するとね、永田康祐の作品で《Sierra》(2017)というのがあるんですけど、恵比寿映像祭やNTTインターコミュニケーション・センター [ICC]で展示されてました。MACのOSの由来でもあるシエラネヴァダ山脈についての映像作品をMACのディスプレイ越しに見る作品で、映像作品を見ながら、普通にパソコンを端末としても使うことができるわけね。現在のメディア環境や、デスクトップ、イメージとはなにかという問題が前景化された作品で、高松次郎の《写真の写真》(1972)にもつながるような印象を持ちます。
しかし、実際に作品に接しているうちに僕は、強烈な日常性の自覚みたいな方向に向かって、喫茶店でぼんやり原稿書きながら、ついついネットサーフィン(死語ですかね)しちゃって、気がついたらYouTubeで昔好きだったけど大手を振って聴けなかった音楽にドはまりして、Twitterで呟いてたりして「何しにここに来てたんだっけ?」みたいなことを意識させてくれる作品だと、素朴に気がついたんですよね。徹底的な自分のユーザーぶりを晒されると同時に、「そうか、いまパブリックってデスクトップなのか」とも自覚させられたわけです。
「ポスト・インターネット」とか言われて久しいはずで、《Sierra》のような作品はありそうな主題だけど、こんなにさりげなくプライベートとパブリックを考えさせてくる永田くんのような作品はなかなかなくて、傑作だと思います。デスクトップ・メタファーが成立しているあいだ、デスクトップにはパブリックがなかった気がするんだけど、いまはメタファーが消失して、リアルになったのだと思う。「デスクトップ・リアリティ」という公共圏、あまりに静かなメディア環境の革命すぎて、僕は自覚してなかった(「デスクトップ・リアリティ」という言葉、水野勝仁さんが提起してるのね)。
《Sierra》という作品が、図書館の端末にあったとして、蔵書を検索してたら、普通にAmazonにつながって、朝イチ最速だったら、書架に行って借りて仕事して帰宅して開くのと同じ速度で自宅に届いたりすることもあり得ますよね。共有と物流もあわせて、いまパブリックをどう考えるのか? 羽島の公共圏からちょっと話題の角度を切り替えてみました。
そもそも、いま改めて蓮沼くんがリアルに公園ときたのは興味深いよね。つまりはいま音楽の場所、アートの支持体となる場所や時間を考えることね。ジェニー・ホルツァーが電光掲示板を使い、フェリックス・ゴンザレス=トレスはニューヨークで看板に寝室の写真を掲示して、いま公園をどうとらえるのか? とても気になります。僕の方がひねくれて、メディアのなかの風景として、サウンド・スケープを捉えてるから気にしてるだけで、蓮沼くんは、もっとシンプルなのかな?
ちなみに、3月8日の「Ginza Sony Park」でのライブ、直接うかがえなかったけど、時里充との即興の面白さとともに、やはり場所や時間に対するアプローチが面白いよね。インタビューも読んだけど、フィールド・レコーディングしてきたピアノの音(自宅の録音?)を再生してたとかさ。場所を運んで時間を運んで、秘めやかなる私性が、パブリックをチューニングしていく感じというのかな。言葉で言うと陳腐かもしれませんが、面白いし、そういうことを聴き取れるオーディエンスがまた、新たなパブリック=公衆につながる。音楽の聴き手は、群衆(crowd)じゃ困るんだよね。
で、じつはいま《Sierra》よろしく、その流れで、永田くんが制作した網守将平「偶然の惑星」のPVを見ながら、Twitterのメッセージでいろいろどういうことなのとか、永田くんに教えてもらいながらテキストを書いてました。「偶然の惑星」は、僕の学生が研究室きてなんか歌ってるから、「なにその曲?」って聞いたら教えてくれた。口誦さめる歌っていうのは、それ自体パブリックでプライベートを獲得している気がする。素晴らしいことだね。で、じつは学生には「網守将平ってなかなか良いよ」って教えたの僕らしいんだが、アルバムで聴いたときに、この曲、僕は気にも留めてなかったみたいで、学生経由だった。こういう出会い方、この曲のテーマにも合ってるので、網守くんも怒るまい(笑)。
それにしても永田くんのPVが良いんですよね。ジョン・バルデッサリをリファレンスにしているとか言ってましたが、画面をいろいろマスクした画面構成で、メロディはあるけどサビも展開もないとりとめのなさ(曲全体がイントロみたいで過激な実験なのだと思うけど)、パタフィジークに擬えた網守くんのパタミュージックにとても合ってるのね。とくに、コーダというのか、4分あたりから、サービス的に売買されるストック・フッテージにマスクした映像が出てくるところ、僕はかなり惹かれる。船が航行しているのを真上から映した映像で船がマスクされていて、航跡波に船影だけが映っている。高松の《写真の写真》と言ったけど、このPVも、なんか写真ぽいのだけど。
で、この曲の録音というか、撮影された実写部分は、杉並区で、音楽家たちは善福寺公園を散歩している(元・杉並区民なのでわかったのかもですが)。ここのマスクもユニーク。情報を隠すためではなく、イメージを拡張するのに一役買ってる気がする。ロケ地、善福寺公園というマニアックな喜びを通じて、僕の幼馴染みの、パブリックな空間に戻ったところで、ひとまず終えておきます。
と言うわけで、僕のPCのOSの画像、Yosemite越しに、網守将平「偶然の惑星」のPVをYouTubeで見ながら。
2019年4月19日 東京から大垣に帰る車中より
松井茂