蓮沼くん
最初に宣伝めいたことを書いておこうと思います。まもなく発売される『美術手帖』2019年6月号で、「平成の日本美術史 30年総覧」という特集の監修をしました。1989年から2019年のアートシーンを区切る理由なんて、なんの根拠もないので、なんだか妙な仕事でした。僕は、「昭和」が1989年まで続いたおかげで、1945年という世界史的な切断面が麻酔されたわけだし、「平成」にいたっては、麻酔された歴史を忘却対象にしつつあるわけだから、装置としての元号が、許せないんですよ。
そういう意味では、自分なりには闘争しつつ関わった特集なので、機会があったら蓮沼くんにもぜひ読んでもらいたいです。この30年というと、自分が生きてきた時間の約4分の3ということになるんだけど、同時代のことなので、歴史ではないですよね。あくまでも現在の立場からの批評というか、状況論としての30年をざっくり、主観的に整理したわけね。なにはともあれ、元号で時代区分をするような考えは依頼がなければしないから、良い経験にはなりました。
ちなみに自分が『美術手帖』のこうした過去の特集に対して持つ感覚で言うと、いずれ現在が美術史として振り返られる際の叩き台なんだろうけれど、基本的にはただただ叩かれ役になる役回りだろう、と思ってます。自分が研究で過去の年表を見るときって、ひたすらツッコミしかいれないからね。
さて、返信ありがとうございます。フェリックス・ゴンザレス=トレスやアルフレッド・ジャーを介して、蓮沼くんが主題とする「見えない存在」と「聞こえない声」がわかってきました。そしてこの議論は、ご指摘のとおり、ここまでに何度か出てきている「芸術の受け手」の問題ですね。これは僕にとって、蓮沼くんとこうしたキャッチボールしたい理由でもあるんですが、さらには美術批評家、東野芳明(1930~2005)への興味でもあります。それは東野の観衆論にあります。
いまは同僚になった伊村靖子さんと、2013年に『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(河出書房新社)を編集しました。この本のテーマはメディア論と観衆論で、僕は日本におけるマクルーハン受容の側面を編集しました。観衆論は、伊村さんの研究に基づいていて、博士論文「1960年代の美術批評──東野芳明の言説を中心に」における重要な主題のひとつだったりするので、僕は後からそれを追って、興味を持つようになった次第。
東野は、1960年代のアンフォルメル以後の芸術状況に関して、アートシーンの中心がヨーロッパからアメリカに移ったことをいち早く察知した批評家で、そのときに重視した観点のひとつに、芸術作品の変化に対応して、観衆もまた変化しつつある、より正確に言えば、観衆も変化しなければならないという問題意識を持っていたと思う。そのきっかけは、50年代末にニューヨークで体験したハプニングやジョン・ケージの音楽であり、ハロルド・ローゼンバーグの観衆論だったわけ。しかし、こうした問題意識が東野にとって決定的になったのは、蓮沼フィルも演奏した一柳慧《IBM》の日本初演だった。僕が蓮沼くんとキャッチボールしようと思った理由にも関わるのですが、東野の観衆論が音楽によってもたらされたということもあったんですよ。
「ロバート・ラウシェンバーグあるいはニューヨークの"地獄篇"」(現代美術の焦点10、『みづゑ』1962年2月号)から引用します。
一九六一年十一月三十日、日本の"芸術"概念は東京草月会館で、はじめて変革された。幕が開くと、梯子に上がった男(マユズミ・トシオ)が黙然と動かない。場内をテープの具体音が流れる(これは、この作品をニューヨークで"上演"したときの音響であるという)。やがて、さらに五人の青年と一人の女が登場して、それぞれの選んだ行為をはじめる。(中略)バスター・キートンのように無表情な眼鏡の男(イチヤナギ・トシ)は、大きな紙のカンヴァスに抽象絵画を描きはじめ、G・I刈りの好青年(タカハシ・ユージ)はベケットの芝居のように退屈そうに椅子とけんかばかりしている。一方、舞台の奥では、一生懸命、自分の身体を紐でしばっているマゾヒスト(コスギ・タケヒサ)がいる。(中略) ぼくはこの舞台を見ながら異様な感動をおぼえた。感動といっても、通常のべたついた感情移入とは反対の、まるで目の前でドアが急に閉まったときのような衝撃だった。ここでは、人間の自由が、お互いにそっぽを向いてすれちがい、一回かぎりの“現在”の新鮮な行為においてまったく孤独だった。(中略) (《IBM》は)あの時、あの場所でだけ空間と時間にきざまれた"行為"のレリーフだったのだ。あの"行為"が二度と繰り返されないほど見事に"自由"を扼殺していたのに比べて、われわれのぼんやりとした日常とは、なんと不潔に自由で、なんと繰返されてばかり いることだろう。
これ、ラウシェンバーグを解説するテキストなんだけど、「中略」を戻すとこの3倍以上《IBM》を説明している(笑)。このテキスト、『現代美術 ポロック以後』(美術出版社、1965)でも読めます。絶版とは言え入手しやすいので、多くの人に読んでもらいたい。むろん、《IBM》同様ラウシェンバーグも、と続くわけ。
東野が注目したことは、日本における芸術概念の変革なわけですが、音楽を聴くという行為を通じてだった。だから受動的な観衆が前提とされていたはずです。東野自身もまた、こうした常識を覆され、心地よい時間や空間の提供とされてきた音楽を楽しむという行為を断念させられたことに対して、パラダイム・チェンジをした。そして、いたく能動的な観衆に変貌したわけだよね。もうすこし丁寧に見れば、自身の中にある従来の音楽観が崩れさり、新たな芸術観が立ち現れてくることを自覚したわけ。当然ながら反発する聴衆もいたわけで、東野は新しがり屋の批評家だから、といえばそれまでなんだけど、観衆のひとりでもある彼自身のなかで、芸術に対する関わり方が変革したということは、彼のテキストを見渡しても、この経験が圧倒的であることは間違いない。
東野はこれ以降、観衆論をしばしば書くのね。と同時に観衆が、作品に関わることで「自己崩壊」を起こすべきだということを主張するようになる。とくに「空間から環境へ」展(1966)の中心人物として関わった際には、現在のメディア・アートに接続するような、インタラクティブな作品に参加するような鑑賞を促す。
補足しておくと、オノ・ヨーコのハプニングに参加したり、いろいろな機会に出演者として参加し続けるんだけれど、どうも《IBM》のような「自己崩壊」には出会えない。大体、よくよく考えてみると、東野は《IBM》に出演したわけじゃ無いじゃない。あくまでも観衆として「自己崩壊」したはずなのに、引用した文書を読んでもそうなんだけど、自ら出演者で参加したかのような勢いで書いてる。まぁ、良質のハプニングに観衆として参加して、「自己崩壊」しちゃったときに、出演したかのような感覚に陥るという、しごくありそうな話になるのですが、もう少し東野の心の裡を想像すると、観衆の場合と出演者の場合の差は当然わかっているはずだから、自分の音楽観が否定されても、これが新たな芸術様式なんだと変革を受容できた自分を、ひとりの現代観衆として哲学してたのかな、と思う。
蓮沼くんが「見えない存在」や「聞こえない声」というものを自身の作品の要素として提示するとき、確かにコンセプチュアルにそれがあることは示すことができるけれど、芸術様式で観衆に変革をどのように促そうとしているんだろうかということが僕は気になります。「自己崩壊」という東野の言葉はやや、21世紀の現在には古臭く響いてしまうニュアンスがあります。しかし、もはや音楽や美術にこだわる必要もなく、アートにおいて、前回の文中にあった「行為に移していかなければいけません」という言葉が、僕にはとても重要な発言に思えました。まとめきれないんだけど、作家も批評家も観衆も「行為に移していかなければいけません」ということ。
一柳慧《Sapporo》(1962)の再演動画を見ながら。
2019年4月27日 横浜にて
松井茂