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ハイレッド・センター
Hi-Red Center
高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3名によって1963年に結成された集団。名前の由来は、3人の苗字の頭文字(高=ハイ、赤=レッド、中=センター)であるが、3人以外にも和泉達、刀根康尚、小杉武久らが活動に参加することもあった。「ハイレッド・センター」という名称が初めて公にされたのは63年に行われた「第5次ミキサー計画」においてであったが、その前年に行われた「山手線事件」というハプニングも彼らの活動の一部に含まれている。また、そもそもグループを結成するきっかけになったのも同事件を総括する座談会が『形象』誌上で行われたことにあった。ハイレッド・センターという名前自体はメンバーの名前の羅列に過ぎないため具体的な主張を伴うものではないが、あたかもこの名が前衛集団というよりも一法人であるかのような装いを帯びているのは、彼らが社会に対して公共性を偽装しながら介入することを志向していたからだった。
駅のホームや電車内で突発的に行われた「山手線事件」(1962)に始まり、帝国ホテルに招待客を呼び寄せた「シェルタープラン」(1964)、銀座の路上を全身白衣で清掃する「首都圏清掃整理促進運動」(1964)も含めて、ハイレッド・センターの活動は始まりから終わりまでが一貫して社会に対する「直接行動」であったと言えよう。そうした試みが臨界点を迎えたのが、メンバーの赤瀬川原平が直面した「千円札裁判」(1963-70)である。そこでは、赤瀬川が制作した千円札を模した作品が違法であるか否かが争われることになったが、これ自体がハイレッド・センター的な「イヴェント」であったと考えられるのだ。
このように、彼らは公共への批判的な介入を通して「芸術」の枠そのものを厳しく問いただすかのような先鋭的な活動を展開したが、64年10月に「首都圏清掃整理促進運動」を最後にしてわずか1年5ヶ月の活動期間を終了することとなった。
駅のホームや電車内で突発的に行われた「山手線事件」(1962)に始まり、帝国ホテルに招待客を呼び寄せた「シェルタープラン」(1964)、銀座の路上を全身白衣で清掃する「首都圏清掃整理促進運動」(1964)も含めて、ハイレッド・センターの活動は始まりから終わりまでが一貫して社会に対する「直接行動」であったと言えよう。そうした試みが臨界点を迎えたのが、メンバーの赤瀬川原平が直面した「千円札裁判」(1963-70)である。そこでは、赤瀬川が制作した千円札を模した作品が違法であるか否かが争われることになったが、これ自体がハイレッド・センター的な「イヴェント」であったと考えられるのだ。
このように、彼らは公共への批判的な介入を通して「芸術」の枠そのものを厳しく問いただすかのような先鋭的な活動を展開したが、64年10月に「首都圏清掃整理促進運動」を最後にしてわずか1年5ヶ月の活動期間を終了することとなった。