シリーズ:これからの美術館を考える(6)
ブロックバスター展は善か、悪か

5月下旬に政府案として報道された「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」構想を発端に、いま、美術館のあり方をめぐる議論が活発化している。そこで美術手帖では、「これからの日本の美術館はどうあるべきか?」をテーマに、様々な視点から美術館の可能性を探る。第6回は、約5年間国立新美術館で共催展に携わり、現在は金沢21世紀美術館で学芸員を務める横山由季子による寄稿をお届けする。

文=横山由季子

2017年に65万7350人の来場者を記録した「ミュシャ展」に並ぶ人々
前へ
次へ

ブロックバスター展とは何か?

 本シリーズでは美術館の現状をとりまく様々な問題が俎上にのせられてきたが、私は前回の論考で住友文彦氏が投げかけた「メディアイベントとしての演出が、専門性に対してどのように影響を与えているか」という問いに答えることを試みたい。ちなみにメディアイベントとは、一般的には「共催展」の名で知られている。メディアと美術館が共同の主催者として企画する展覧会を指すが、しばしば予算を多く支出するメディアの発言権が強くなる傾向にある。

 共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれるものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議でメディアの担当者と話していても、60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚がある。

2018年上半期の入場者数TOP10(美術手帖調べ)。60万人以上を記録したのはレアンドロ・エルリッヒ展のみ

 ここ数年では、2012年の「マウリッツハイス美術館展―オランダ・フランドル絵画の至宝―」(東京都美術館、75万8266人)、2014年の「オルセー美術館展 印象派の誕生―描くことの自由―」(国立新美術館、69万6442人)、2015年の「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展」(東京都美術館、76万3512人)、「ルーヴル美術館展 日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄―」(国立新美術館、66万2491人)、2016年の「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」(国立新美術館、66万7897人)、そして2017年の「ミュシャ展」(国立新美術館、65万7350人)、「開館120周年記念 特別展覧会 国宝」(京都国立博物館、62万4493人)、「興福寺中金堂再建記念特別展 運慶」(東京国立博物館、60万439人)が該当する。

 こうして列挙してみると、国宝や運慶といった日本美術とともに、フェルメール、モネ、ルノワール、ミュシャといった西洋美術の代表格ばかりが並んでいる。ブロックバスター展とは、すでに評価と人気の確立した作家の作品を集め、大々的な広報を仕掛けることで成立するシステムにほかならない。ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段は美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術の裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。そして現場の学芸員は、採算性と学術性を両立させるという大きな矛盾に直面することになる。

共催展の仕組み

 そもそも、美術館やデパートを会場に新聞社が主催してきた展覧会の歴史は、戦前にまでさかのぼる。その歴史的経緯について詳述する余裕はないが、戦後1960年代になると60万人以上、ときには100万人を超える観客を動員する新聞社主催の展覧会が頻出し、やがてテレビ局も参入して現在に至っている。1990年代以降は様々な事情からデパートを会場とすることが減り、共催展の舞台は美術館へと移された。今日における美術館とメディアの共催のあり方は、それぞれの状況や条件に応じてじつに多種多様で、ケースバイケースというほかはない。

 ブロックバスター展のように、かなりの収入が見込める展覧会であれば、メディア側が予算を出資して展覧会のマネージメントや広報を取り仕切り、美術館側は会場を提供すると同時に、学芸員が企画のための調査研究を担うというケースもある。あるいは、美術館と複数のメディアによる実行委員会が組織され、それぞれの出資金によって予算が賄われるというケースもあり、地方の公立美術館でよくみられるようだ。この場合も、やはり収入が見込める場合はメディアの出資額が多く、逆に収入が見込めない場合メディア側は出資せず、自社媒体に広報を出すのみということもある。そして、出資した割合に応じて、美術館とメディアで収益を配分するというのが、おおまかな共催展の仕組みである。

数々の共催展が開催される東京都美術館

展覧会コストの肥大化

 近年多くの美術関係者を悩ませているのが、展覧会をめぐるコストの肥大化である。とくに海外から有名な名画を含むまとまった数の作品を借りようとすると、美術作品の移動に不可欠な輸送費と保険料、借用料は合わせて億単位にのぼる。保険料に関しては、2011年から美術品補償制度(国家補償)が導入され、出品作品の総評価額が50億円を上回る場合は、申請・審査を経て政府による補償を受けられるようになったが、やはり主催者側にもある程度の負担は発生する。そして展覧会の大規模化にともない、展示施工費や監視・警備費、そして広報費もかなりの額にのぼる。

 さらに、最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。そして展覧会のコストが膨れ上がった昨今、それを回収するために、否が応にも広報は過熱する。60万人を動員して収支を成り立たせるために広報にどれだけお金をかけるのか、メディアはぎりぎりのラインで駆け引きをしている。そんな状況下で、直接的な集客に結びつかない部分――展覧会カタログや学術的な講演会などの経費は削られてゆく。もちろん、メディアの文化事業部には、展覧会の学術的意義に理解のある方もいるが、あくまでも組織としては採算性が優先されることになる。

名画をめぐる国際的競争の激化

 こうした展覧会をとりまく困難は日本に限ったことではなく、フランスのとある美術館の館長も、自身が学芸員になった20年ほど前に比べて、最近は展覧会を開くことがとても大変になったと嘆いていた。背景にあるのは、コストの肥大化に加えて、名画や名品の借用をめぐる国際的な競争の激化である。そして日本において作品を借り出す競争力をもっているのは美術館ではなく、資金力を背景に戦後継続して海外の美術館とのネットワークを築いてきたメディアである。したがって、メディアの力によって数十万人を動員できるブロックバスター展を仕立てなければ、世界の名画を借りてくることはほぼ不可能な状況にあるともいえる。

 ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外の作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。それでも西洋美術の展覧会を構成するにあたり、内容によってはヨーロッパやアメリカの美術館が所蔵する作品がどうしても必要だという場合もある。調査研究を重ね、ぜひとも借用したいという作品が出てきた場合、たとえ共催展でもメディアにばかり頼るのではなく、学芸員が率先して交渉にあたることが必要不可欠だ。

 私自身の経験を振り返れば、メディア側はあちこちから借りてコストがかさむことに消極的だったが、どうしてもリストに加えたい作品がいくつかあり、海外の美術館やコレクターとコンタクトをとって、メールや電話で先方の条件を聞き出し、直接会って交渉を重ねた結果、出品が叶ったこともあった。ときには借用料を請求されることもあったが、作品の重要性を説明し、理解してくれたメディアには感謝している。作品を1点動かすというのは想像以上に大変なことである。お金もかかるし、タイミング次第なところもある。だが、もっとも重要なのは、行動力と粘り強さだということを学ばせてもらった。

拡大する広報

 今日の共催展では広報費もかなりの額にのぼると述べたが、ブロックバスター展の場合はさらに大々的な広報が展開されることになる。大型展の広報では、メディアと美術館に加え、PR会社も加わって広報戦略が練られる。最近ではPR会社に代わり、大手広告代理店が展覧会の広報を仕掛けることもあるようだ。広報会議では、ポスターやチラシのデザイン、キャッチコピーにはじまり、プレス発表の時期と内容、世代別・ターゲット別にどの媒体にどんな告知を出すのが効果的かといった議論が繰り広げられる。また、よく知られている通り、音声ガイドや展覧会のサポーターに著名人を起用して、展覧会の周知へとつなげるという手法も定着しつつある。そして近年ではSNSの活用が叫ばれ、主催者側から発信するだけでなく、展覧会会場の内外に撮影スポットを設け、その写真が拡散されることで観客が観客を呼ぶという現象も起こっている。

 こうしたイベント性に主眼を置いた広報が打ち出されるなかで、学芸員の役割は、いかに行き過ぎに歯止めをかけるかといういささか消極的なものになりがちである。だが、美術展にふさわしい広報を展開するためには、メディア側も厳しい予算のなかで運営していることを承知したうえで、展覧会の本質を損なうことなく、多くの人に作家や作品の魅力を伝えていく方法を考えていかなければならない。すべてをわかりやすく、面白いエピソードとして語ることが求められるなか、作品理解を助ける解説を提供しつつ、美術作品には言葉では説明しきれない部分があるということを示し続ける必要があるだろう。

 SNSもうまく活用すれば、カタログの論文や会場の解説とは異なった切り口で、展覧会の見どころや作品を紹介する場となる。さらに、音楽や文学、演劇、ファッションといった分野と美術をつなぐ関連プログラムを実施するなど、様々なアプローチがあるはずだ。美術ファン以外にも展覧会に足を運んでもらうためのきっかけづくりは、広報的効果だけではなく、展覧会そのものに厚みと広がりをもたらすことにもなる。欧米ではカルチュラル・メディエーションという言葉でこうした考え方は定着している。

 もうひとつ、共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者に展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館や展覧会の未来はそう長くはないであろう。以前大学生と話していて、ひとりで美術館に行くのが不安という声を聞き驚いたことがあった。入場料も高くなるいっぽうで、美術館は敷居の高い場所になってしまっているのかもしれない。こうした現実と向き合いながら、若い世代の視点に立って、美術に興味を持ってもらえるような活動を、美術館は地道に続けていかなければならない。

近代美術と現代美術の乖離

 さまざまな視点から、共催展、ブロックバスター展をめぐる現状を見てきたが、戦後の共催展がもたらしたもっとも大きな問題は、日本における近代美術と現代美術の乖離ではないだろうか。これはフェルメールやモネ、ゴッホといった確実に集客が見込める西洋美術一辺倒の大型展ばかりが何十年も続いてきた帰結ともいえる。研究者の数も、展覧会の観客数も、圧倒的に近代以前の西洋美術に偏っている。

 現代美術にも大衆が押し寄せれば良いというわけではないにしても、パラレルワールドのような現状は、打破していかなければならないだろう。現在では芸術祭が現代美術の振興に一役買っている面もあるが、近代美術の延長線上に現代美術を位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆や草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディアが現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術と現代美術をつなぐ展覧会を企画したり、現代美術を一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。

学芸員の専門性

 再び話を西洋美術展に戻そう。数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代や主題ごとに画業をたどるようなオーソドックスな構成となりがちだ。先行研究や調査をふまえた新たな視点を、カタログの論文や作品解説のなかで示すことはできても、展覧会の構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館やルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館の学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画の自由度が低くなるという側面もあるだろう。

 他方で、海外の学芸員やドキュメンタリストと一緒に仕事をすることは、大きな学びの機会でもある。オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、そして日本語や中国語、韓国語の資料も網羅されている)、それを日々リアルタイムで更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。

オルセー美術館外観 出典=ウィキメディア・コモンズ
(By Daniel Vorndran / DXR, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31953569)
オルセー美術館のドキュメンテーション 撮影=筆者

 また、すでに指摘されているようにフランスの美術館でも専門は細分化されている。学芸員、レジストラー、コンサヴァター、エデュケーター、ドキュメンタリスト、広報担当、デザイナー、そしてオルセー美術館には国際展(オルセー美術館の作品を世界各地に貸し出して開催する展覧会)のコーディネーターもいる。保坂健二朗氏の論考にあった通り、日本では学芸員がレジストラーやコンサヴァターの役割を果たすばかりか、館の規模によっては広報や教育普及の仕事も行い、行列整理にも駆り出される。さらには学芸員がデザイナーさながらキャプションやポスターを手づくりしている館も多い。

 展覧会の企画にはあらゆる方面の膨大な作業が発生するが、共催展の場合、広報だけでなく、予算の管理や輸送の手配、クーリエの招聘などをメディア側が中心になって進めてくれる。このようにメディアが運営面を担ってくれることで、学芸員が展覧会の内容に注力する時間をより多く確保できることも事実である。また、共催展を実施している美術館では、共催展で得た収益によって、館独自の企画が可能になっているという側面もある。美術館側が予算や人員を拡大し、メディア側と対等に企画できるようになれば、こうした共催展のメリットを生かす道も考えられるのではないだろうか。

 そして常々残念に思ってきたことだが、とりわけメディアが立案して美術館に展覧会を持ち込む場合、担当する学芸員の専門と展覧会内容とのミスマッチが生じるという問題も根深い(もちろん両者が一致した幸運な例もあるが)。再びフランスの例になるが、グラン・パレで開かれるような大型展は、組織の枠を超えて外部の美術館や大学から専門家が集結し、共同で企画されている。その成果は圧倒的で、毎回度肝を抜かれるような充実した展覧会が日の目をみている。日本でも万難を排して、学芸員がその専門性を発揮した企画を実現できる柔軟なシステムが構築されることを願いたい。

 最後になったが、本論考を書くにあたり全国の美術館で働く多くの学芸員の方からお話をうかがった。この場を借りて心より御礼を申し上げたい。