シリーズ:これからの美術館を考える(2)指定管理者制度から探る「サヴァイヴィング・ミュージアム」への道

5月下旬に政府案として報道された「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」構想を発端に、いま、美術館のあり方をめぐる議論が活発化している。そこで美術手帖では、「これからの日本の美術館はどうあるべきか?」をテーマに、様々な視点から美術館の可能性を探る。第2回は長年、川崎市市民ミュージアムで学芸員を務めてきたインディペンデント・キュレーター、クリティックの深川雅文。

文=深川雅文

川崎市市民ミュージアム 出典=ウィキメディア・コモンズ

「ミュージアム氷河期」の到来

 21世紀初頭から2020年までの20年間の日本の文化状況を、後世の人々はどのような目で見るのであろうか?

 2001年、芸術文化基本法が制定され、日本は文化国家としての新たな姿勢を示したかに見えたが、他方で、文化芸術の基盤を根底から揺るがす危険性も孕んだ制度の変更も進行した。その震源のひとつが、2003年に改定され同年9月から施行されることになった、地方自治法第244条「公の施設」に関連する法制度であった。その改定により、美術館・博物館の運営に関しても民間の営利追求する団体や組織も指定管理者に選定し、運営委託することが可能となった。

 コレクションを有し、その保管・保存・研究活動の長期的な継続性がその機能保全の根幹の一つとされてきたミュージアムに、効率性を重視し短期的ビジョンでの運営を優先せざるを得ないこの制度がなじむのか否か、当然、議論は巻き起こったが、行政改革の怒涛の波に抗するには至らず、一方的に寄り切られることになった。根底には、1990年代のバブル経済崩壊後の経済状況の低迷、小泉元首相が推し進めた「郵政民営化」に象徴される構造改革路線の進行などの複雑な政治経済状況があり、それに呼応し、美術館・博物館の運営に関しても経済効率性の論理が強烈に働くことになった。人類の文化的資産を社会的に保持し未来に伝えていくという、博物館法に記されたミュージアム本来の目的と機能が、こうした論理によって大きく見直しが迫られる激動の時代に入ったのである(それは今日も続いている)。

 こうした状況下、美術館・博物館の存立そのものが厳しく問われて激震が走ったミュージアムも少なくない。程度は別にしても、多くのミュージアムがこの社会環境の変化に対応するために様々な艱難辛苦を体験し、今も格闘中というところであろう。「ミュージアム氷河期」の到来である。

川崎市市民ミュージアムの事例から

 かくいう私も、その嵐の海に投げ出された学芸員のひとりであった。所属した館の名は、川崎市市民ミュージアム。2004年の初頭、市の包括外部監査報告のなかで「民間企業なら倒産状態」と酷評されその存否を問われたことで、美術館・博物館問題の渦中にある館として全国的に注目され、指定管理制度適用の最初の館となるのではないかと騒がれた。監査結果を受け設立された専門家を中心とした改善委員会は、調査・検討の結果、現場での改善が進行中であることも鑑み、まずは、設置者たる川崎市が主体となって現場と共に改革を進めるべきという提言を行い、指定管理の適用はいったん、見送られる。

 その後、運営評価のために設置された協議会でその成果を確認し、課題を抽出しながら改革・改善が進められていたが、市の方針として16年に改めて指定管理制度を適用することが示され、それを受けるかたちで、開館以来、学芸業務を中心的に担ってきた組織 (筆者はそこに所属していた)を含む共同事業体と、もうひとつ別の事業体が名乗りを上げて、指定管理の選定プロセスが実施された。同年8月に結果が出され、後者の事業体が指定されることになった。受託した事業体は、直後に学芸の体制を組織し始めたが、その過程で示された学芸業務従事者の公募要件には学芸員資格は記されていなかった。

 同館は1988年の設立時、日本で最初の写真部門、漫画部門を持ち、国内外の複製技術芸術(メディア・アートの原点)を総合的にコレクションする館として国内外の関係者から高い注目を集めていた。また、川崎市で初めての本格的な歴史博物館を統合した施設でもあった。設立時に掲げられた館のミッションと、それとともに形成されたコレクションを引き受ける母体の性格を考えた場合、それまで学芸業務を担い、とりわけ、コレクションの保管・研究・公開に専門的に深く関わってきた人間にとしては、正直なところその指定のあり方に疑問を感じながらも、市の決定を受け入れざるを得ず、言葉を失った。私自身、準備室時代から学芸員として働いたこの館に後ろ髪を引かれながらも、現場を去らざるを得なかった。

 ところで、この指定管理の行方について市議会で議論されていた最中の秋、雑誌『月刊アートコレクターズ』2016年10月号(生活の友社)が全国の美術館にコレクションの数と内容に関して包括的なアンケート調査を行った結果を発表。川崎市市民ミュージアムは、美術館として約10万点を所蔵しており断トツの一位で、二位を倍以上大きく引き離すコレクションを有することが明らかになった。

 写真、漫画、グラフィック、映画、映像というメディアの歴史に関わる総合的なコレクションとしては、いまも国内でその右に出る館はない。この膨大なコレクションを川崎市民の文化的資産として預かり、研究・調査する専門の学芸員の重要性について選定の過程でどれほどの熟慮がなされたのか。結果を見る限り、そうした面でのプライオリティーは低かったと思われる。川崎市自身が設立時に設定したミッションに基づいて学芸員を中心に収集・研究活動を組み立て、その結果のひとつとしてコレクションがあったにもかかわらず、である。市は、設置者として、運営を指定管理者に委ねるにしても、コレクションに関して市民に負う責任は大きいはずである。美術館の顔となる展示活動は、集客の面でも重要だが、そうしたコレクションと密接に関連して進められることで館のアイデンティティーが形成される。この調査結果の重みは、市議会でも一部の議員から指摘され、学芸員の専門性と保存・研究活動の継続性が重要であり、その点で指定管理者指定の選定結果を懸念する声も出されたが、多勢に無勢、役所の選定手続きとしては瑕疵がないとのことで市議会も承認した。市自らが課した館の文化的なミッションへの信念は、いったいどこに飛んでいったのだろうか?

苦難の時代を生き抜け

 館を去ってはや2年となる今年の5月19日、読売新聞紙上に政府案として突然に示された「リーディング・ミュージアム」という構想が報じられ、議論を呼んでいる。長く美術館に関わってきた人間として見過ごせない提案である。ミュージアムと学芸員が美術市場の活性化の装置として「活用」され、コレクションを経済的なフローに乗せる発想は、博物館法で規定されているミュージアムの社会的役割とは根本的に矛盾するもので、美術館の本来の姿を大切にしようという側からは批判の声が絶えない。

 ところで、この構想は、青天の霹靂的に受け止められているが、指定管理者制度導入がミュージアムにもたらした打撃とその破壊力を実際に体験した私には、制度導入に動いた国の思惑がこの構想に行き着いたのは自然の成り行きではないかと思われる。「聖域なき構造改革」という経済政策をミュージアム領域に適用する処方箋の第一が指定管理者制度導入であり、結果、経済合理性・経済効率性の論理が文化領域を無差別的に侵食していった。コレクションの「活用」という役所的な言葉が普通に使われるようになり、作品は、経済の論理に巻き込まれる危機に曝されてきた。ミュージアムを経済活性化をドライブする装置に見立てる単純化した発想は、指定管理者制度の思惑と同根なのである。厳しい経済情勢の下では予算を含め美術館の運営の健全性は追求されなければならないが、経済効率性への極端な傾倒は、コレクションの文化的評価やそれへの公共的な責任を容易に放棄するような判断を自治体に取らせる危険性は否めないだろう。

 「リーディング・ミュージアム」に関して関連する資料や意見を調べていたら、SNS上に、記事が公表されたその日にいち早く反応して投稿された、ある学芸員の含蓄ある言葉を見つけた。 

 杞憂だと言われるかもしれないが、「リーディング・ミュージアム」的な発想が国内各地域に伝搬し、各自治体において指定管理者制度の運用とあわせて実施されるとしたら、これまで地道に守られてきたミュージアムのコレクションすら武装解除され、流動化する危険性が想像される。各地のミュージアム解体の危機がまざまざと目に浮かぶ。あれ、日本は文化国家ではなかったのか? ミュージアムに関わる人々は、指定管理者制度に抗しきれなかった歴史を踏まえ、いまこそ、ミュージアムを愛する人々とともに、この流れに抗して声を上げる時ではないだろうか。「リーディング・ミュージアム」の道ではなく、この苦難の時代を生き抜く「サヴァイヴィング・ミュージアム」への道がいま、まさに拓かれなければらない。