炎上で終わらせないための孤独な自作解説
露悪的な表現が難しい時代になった。表現の暴力性への自覚、他者への配慮が大切なのは大前提としてあるが、暴力的とされる表現が感情的に糾弾される状況に、言論の行き詰まりや息苦しさを覚える人も少なくないのではないか。
会田誠の《犬》シリーズは、ポルノチックな図像からしていかにも槍玉に挙げられそうな作品だ。本人いわくネットでずっと悪口を言われ続けている作品だというが、なぜ本作ばかりが非難の集中砲火を浴びるのか。SNS上では冷静に展開できそうもないこの問題に対し、会田は約6万字にも及ぶ書き下ろし文章「『犬』全解説」を上梓した。
《犬》が制作された1989年、会田は東京藝術大学に在籍する23歳の画学生だった。絵画、とりわけ具象表現が逆風に晒されていた時代であり、当時はまだオタク・カルチャーも今日ほど市民権を持たない日陰の文化であった。会田自身、鬱屈とした思いを抱えるシニカルな青年だったようだ。左翼の両親のもとで育った反動から「日本」への関心を深め、三島由紀夫や小林秀雄の文章を養分とし、戦後日本の父性の失権に思いを馳せる。《犬》の制作背景から浮かび上がるのは、内省によってアイロニカルな表現の土台をつくり上げていく作家の核の部分だ。
作家が自作について延々とひとり語りする構図にいびつさを感じないわけではない。しかし、会田はこのいびつさを承知のうえで引き受け、抉った内腑をみずから太陽光のもとに晒している節さえ見受けられる。鍵となるのは本書で何度かふれられる会田の批評観だろう。会田にとっての批評、それは「自己解剖」なのだ。だからこの文章は、誰かの理解を即時には求めない孤独な繰り言、自虐的な近代文学の一種として読むのがふさわしいのかもしれない。
後半収録の「性」のパートは2013〜14年にウェブ上で連載された記事の転載。オナニー、セックス、レイプ、ポルノといった話題について、青臭さを恐れぬ執拗な思索を重ねている。今日の道徳観からすればゾーニングされるであろう危うい記述もあるが、会田は転載にあたって加筆修正などの処置を行わなかった。つまり、「価値観のアップデート」でお茶を濁さなかった。世間的に忌避される話題をなかったことにしないし、SNS時代に対応した器用な答弁でモラルを上書きしたりもしない。ここに、書き手としての誠意のかたちをみる。
現在の観点からして「悪」「タブー」とされる作品が、なぜその時代に生まれたのか。制作当時の文化状況を知ることが理解への一歩であるのは間違いないし、本書がそのための責務を果たした点はきっと誰もが認めざるをえない。
(『美術手帖』2022年10月号、「BOOK」より)