それをご存知でこの企画に僕を指名されたのかはわかりませんが、ダミアン・ハーストと僕は同い年なんですね。世界でもっとも有名なアーティストのひとりで、世界トップレベルの金額で作品が売れているダミアンと、日本で燻っている自分。30歳ぐらいのときに同い年と気づいたのですが、それ以来、タメ年の憎いやつということで、ダミアンは一番出世した同級生のように見てきました。
個展会場のインタビュー動画でダミアンは学生時代のことを話していましたが、80年代後半の美大生として、イギリスと日本ではいろいろ環境は違いながら、共通しているものも多いと感じました。「絵画のイリュージョンが耐えられなかった」とか「絵画は自分にとって『偽物の窓』だと思った」とか語ってましたが、その「絵画の冬の時代」という空気感は、日英共通していました。カッコいい広告ヴィジュアルの横に置いてもサマになるような作品しか作りたくないとも語っていましたが、要するに「シミュレーショニズムの時代」ってことですよね。日本なら「レントゲン藝術研究所」が大森にあった時代です。
さて、どこから話しましょうか......。僕はダミアンの「桜」シリーズをまずネットで見ました。絵だけでなく、アトリエで描くダミアンの様子や、絵具のついたソファなどの写真もありました。それらが絵画の物質性や汚れを強調しているようで、なにか演技じみたものを感じました。それで思い出したのが、2012年にネットで見たニュースです。デイヴィッド・ホックニーが大規模な個展をイギリスの王立芸術院で開催したときに、ポスターに「展示されるすべての作品は、画家本人がたったひとりで制作したものです」と書かれていたんですね。それについてインタビューで「ハーストへの皮肉なのですか」と聞かれたホックニーは、迷わず「そうだ」と答えました。イギリスのアート界の大先輩にそんな名指しで言われて、悔しかったんじゃないかと思いますね。まあホックニーも年甲斐もなく挑発的というか。それで「俺だってひとりで描いてやる!」と奮起したのかな、なんて想像しました。最初は助手を使ったけれど、コロナ禍で呼べなくなったとインタビューで答えていましたが、この絵の描き方は最初から一人で描くことが可能な描き方だと思います。
2017年のヴェネチア・ビエンナーレで発表した《Treasures from the Wreck of the Unbelievable(難破船アンビリーバブル号の秘宝)》を僕は実際に見たのですが、結構評判悪かったですよね。ほとんどすべてを、古き良き具象彫刻ができる優秀な人たち—僕はなんとなく中国人が多いのかなと思いましたが—に大金を払って作らせた感じがしました。3Dプリンターも駆使していたのかな?いずれにせよ、ぜんぜん自分では手を動かしていない感じがあからさまで。金にものを言わせた発注作品のイヤミったらしさの、マックスみたいなものでしたよね。そのあとですよね、「桜」シリーズを始めたのは。あれからの完全な反動という気がしますね。全部を自分で描くと決めて、2018年から3年間でこれだけの大作を107点も仕上げてしまうのですから、世界のトップランナーはやることが徹底していますよね。いやあ、まったく......。その覇気というかエネルギー量に打ちのめされたというのは事実です。
ただ......絵の具体的な内容に関して、引っかかった点はいくつかあります。最初にどうにも気になったのは......枝ですかねえ。インタビューでは抽象と具象の中間を狙いたかったと言っていて、枝は具象性を示すギリギリの要素なのかもしれないけど、それにしても......。まず青空を塗って、それから焦げ茶色のベタ塗りで枝を描いて、そこから花をいろいろな色で描くわけだけれど、枝のベタな焦げ茶色は完成までなんにも、あるいはほとんど手を入れないんですよね。花には印象派的な色彩分割の工夫をあれこれ試みるし、空の水色にもそれなりにニュアンスが入ったりするのに。なんというか......例えば美術予備校の指導だったら、絶対この枝の処理はNGが入るんですよね。「花にばかりに気を取られて、枝に神経が行き届いていない、素人にありがちなミスだ、全部やり直し!」と。あと、基本的には絵具をつけた筆でツンツンとフェンシングみたいに絵具を載せるのだけれど、時々ポロックみたいに筆先からピュッピュッと絵具を飛ばして付着させる。自分でコントロールするだけだと限界があるというか、退屈になってきて、ピュッピュッの偶然性も取り入れて画面に生気を与えようとしているのはわかるんだけど、僕にはなんとなく中途半端に思えて。これなら全部エナメル塗料を跳ね飛ばすポロックの方が、あるいは全部油絵具を丁寧に置くスーラの方が徹底していたじゃないか、と。あと、葉っぱの形をしたスタンプみたいなのもナゾで、ドットのみの退屈さを回避する窮余の一策って感じもするし、「オマエ絵を舐めてんのか!」と言いたくもなります。
でも「いや、そんな美術予備校の講評会を連想するような考え方自体が、日本的なせせこましさか......」と思っちゃったりして、その堂々巡りでひたすらモヤモヤするんですよね......。
まあハッキリ言って、ダミアンさんは美術アカデミーでは絵画の劣等生だったでしょう。僕もある意味そんな者だったのでわかるんです。美術アカデミーには稀にホックニーみたいなナチュラルボーンな絵描き体質の人がいて、それに比べたら自分は偽物だという意識は、本人は無意識レベルだとしても持つものですよ。それでガラッと逆を行く。牛やサメの死体、薬の棚、ダイヤモンドの髑髏......鮮烈なイメージを浮かべる才能はズバ抜けてあるわけです。あとカッコいい広告みたいなアートがつくりたいと本人が語ったように、ある種の視覚伝達デザインみたいなセンスも秀でていた。それを100パーセント使った、絵画というか平面作品の成功例がスポットペインティングだった。そこにプラスαぐらいな要素だと僕は思うんだけど、「生と死」といった普遍的なことを考える知力と真面目さもあった。これらの要素が「絵画の冬の時代」とマッチして、若くしてあれよあれよという間に大成功を収めさせた。けれど年齢を重ねて、僕と同じく父親になって、醜く腹も出てきて、昔のある「後ろ暗さ」みたいなものがぶり返してきたんじゃないかな。自分は絵画から逃げることで、この成功を手に入れた。クールに作戦を考えて、人々をあっと驚かせる──そういう現代美術の効率的な成功はもう前のヴェネチアでマックスまでやって、自分でも飽きてしまった。今こそ絵具とネチョネチョと不器用に格闘する、古臭い方法論である絵画に挑戦してみたい。モチーフは鈍臭いかもしれない、母親が好きだった桜を敢えて選んで。そうしてホックニー先輩にも認めてもらいたい。......いやまあ、ほとんど僕の妄想ですが。
けれど、それとは違う見方でこの展示をみることもできます。つまり、これをもう絵画展としては見ない、現代美術のインスタレーションの一種として見るような見方です。やはりダミアンはインスタレーションが当然のこととなった1980年代以降の美術作家ですからね。そうして見ると、広い会場を悠々を使った、シンプルな、全体的な統一感の高い現代美術の展示、という風に受け止めることが可能です。若い女性客などが盛んに“映え”的にパシャパシャと写真を撮っていましたしね。そういう実物大の風景の没入感とか、擬似花見という仕掛けとか、成功しているわけですよ。
たぶんとくに我々日本人、そのなかでもとくに日本古美術や近代日本画で描かれてきた桜を愛してきた人の神経を逆撫でするようなところが、このダミアンの桜にはあります。薄桃色の5枚の花弁のある、可憐な花が膨大に集合して、壮麗な全体を形づくる──人間社会のように──そこにこそ感動があるのに、ダミアンの桜はベチョっと絵具を押しつけた点ですからね。「一花一花に愛が篭っていない!」と叫ぶ人がいても不思議ではありません。でも日本画の桜の描き方も、多分に記号的ですしねえ......。まあここは、長らくの肉食人種が、我々が繊細と感じている桜に対して、どのような大鉈を振るうか、謙虚に学んだ方がいいでしょう。悔しいっちゃ悔しいですけどね。まったくダミアン、天井高のある現代美術館のホワイトキューブを知り尽くしてますよ。人類にとって絵画鑑賞が、これからどういう方向に曲がっていくのか、この展示が示唆するものもあるでしょう。
とにかく僕は今混乱しています。ちょうど僕は今、今後大きな作品を積極的に量産していくべきか、あるいはそのまったく逆をいくべきか、人生の選択を迫られているタイミングなので。ダミアンのこの桜を見たことが、良かれ悪しかれなんらかの影響を僕に与える気がします。今日はうまく喋れなくてすみません。でも世界一成功した同い年が開く、あえてコテコテのこの絵画展を、いろいろ屈折を抱えながらも細々と絵画中心で現代美術をやってきた僕に語らせるって......いやホント、ほとんどイジメですよ......。