名付けようのない行為に目を向ける
1985年に組まれた本特集のタイトルは「パフォーマンス」。その前提には、80年代の日本でパフォーマンスという語が一般に定着しつつあった時代背景がある。特集に寄せられたテキストのなかで國吉和子は、パフォーマンスとは「美術からの脱領域」や「既成のジャンルから逸脱する中間領域」として「芸術家たちの行為を活性化」するものであると定義している。しかし、こと「行為の芸術」という点でいえば、それ以前にもハプニングやイベント、ボディアートなどの類似する試みが盛んに行われていた。
本特集の特徴は、パフォーマンスの新規性よりも再帰性に、すなわち「パフォーマンスの系譜」に焦点を当てている点にある。例えば、高島直之は「行為の軌跡[日本篇]」と題されたテキストで「三科」を詳しく紹介する。三科とは、大正時代に結成された前衛美術集団のこと。1925年に築地小劇場で開かれた「劇場の三科」は、一夜かぎりの公演にもかかわらず千人以上の人々が押し寄せ、メンバーによる過激な行為の数々──ステージ上でオートバイが油煙を撒き散らす行為、下着姿の村山知義による即興的な行為、神原泰によるヒソヒソ声の(観客には聞こえない)行為など──が目撃された。
また同じく高島が紹介する九州派は、1956年に旧福岡県庁付近で街頭展を実施し、麻袋をかぶり石油缶をぶら下げたメンバーがデパートの中を走り回る行為をした。官展から分離・独立した二科会からの再分離(あるいは、それへの揶揄)を意味する「三科」という名前にも、東京という「美術の中央」への反発を意味する「九州派」という名前にも、ともに既存の空間からの逸脱というテーマが見て取れる。パフォーマンスとは、そうした「逸脱」に伴い、半ば必然的に立ち上がる表現形式なのではないだろうか。
しかし、それは同時にこのようにも言い換えられる──社会から逸脱する(名付けようのない)行為に「パフォーマンス」という名前が与えられたことによって、それは社会に飼い慣らされた行為になってしまった、と。つまりそれは、ジャンル化されてしまった途端に効力を失ってしまう矛盾した形式でもあるのだ。そうであるならば、本当の意味での「パフォーマンス」について考えるためには、もはやパフォーマンスとすら言われていない行為に目を向ける必要が出てくる。
それはかつての「パフォーマンス」のように過激なものではなく、一見すると穏当で協調的な行為ですらありうるだろう。つまるところ本特集は、パフォーマンスの「系譜」を可視化することによって、そうした「潜伏するパフォーマンス」の存在を示唆しているのかもしれない。
(『美術手帖』2024年7月号、「プレイバック!美術手帖」より)