崩壊する画壇の未来とは。特集 1968年11月号「画壇の崩壊」

『美術手帖』創刊70周年を記念して始まった連載「プレイバック!美術手帖」。美術家の原田裕規が美術手帖のバックナンバーを現在の視点からセレクトし、いまのアートシーンと照らしながら論じる。今回は、1968年11月号より特集「画壇の崩壊」をお届けする。

文=原田裕規

1968年11月号「画壇の崩壊」内、北村由雄「美術団体の危機──個人と組織のジレンマの実体」
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崩壊する画壇の未来とは

 本特集のタイトルは「画壇の崩壊」。北村由雄、三木多聞、針生一郎の3人の論考で構成されている。特集が組まれた1968年11月は、日本初の本格的な国際美術展「人間と物質」(1970)の前夜とも言える時代だった。しかしなぜ、この時期に「画壇の崩壊」なのだろうか。そこでまずは、当時の時代背景をおさらいしてみよう。

 まず、50年代初頭の東京には貸画廊が7、8軒しかなかった。それが50年代の終わりになると33軒にまで増加し、美術団体(=画壇)を離れて作家が個人で活動する土壌が整えられた。さらに51年には第1回サンパウロ・ビエンナーレが開かれ、国際展への日本人作家の「輸出」が始まる。他方で56年には髙島屋で「世界・今日の美術」展が開かれ、アンフォルメルの「輸入」とともに具体美術協会が注目され、前衛運動における国際的同時性が意識されるようになった。

 このような「個人活動の土壌整備」と「国際化」に対抗するように、美術団体=画壇は徐々に独自路線を歩み始める。特集内でこの方向性が印象的に伝えられているのは、67年に開かれた独立美術協会のパーティの描写である。そこには、各地から集まった数百人もの会員がひしめいていた。しかし不思議なことに、林武や海老原喜之助といった重鎮の姿が見えない。重鎮たちは敢えて会員との距離をとることで「自分の生み育てて来た団体が無限に膨張するさまをながめながら、もはやそこに創造の場を求めていないのではないか」(北村由雄)と指摘されるのだ。

 さらに、二科会の重鎮・東郷青児の発言も紹介されている。「二科展はなにもプロだけの集まりである必要はないと思ってますよ」「趣味の人から意外な掘り出しものがあるかもしれない。アンリ・ルソーみたいなね」。

 このように、ある時期から画壇は「創造の場」ではなくなっていった。しかしいっぽうの現代美術も、それが「日本の社会のどこにその基盤をもとめることができるかという疑いがのこる」(三木)とされている。こうした立場の中間にいたのが、岡本太郎だった。61年に二科会を離れた岡本は、脱会に際して次のような言葉を残している。「公募展は唯一の形式ではないかもしれないが、これも時代、時代の無名の芸術をうけとめ、押し進める大きな役割をもっているはずだ」「いずれ時代の新鮮な要求に応じた団体展が生まれるだろう」。つまり理想的な美術団体=画壇とは、社会のなかに地盤を持ち、無名の芸術の受け皿でありながら、国際的同時性も志向するものであるのだろう。それでは現代の画壇=美術界は、その理想にどれほど近づけているのだろうか。

1968年11月号 特集「画壇の崩壊」

『美術手帖』2024年1月号、「プレイバック!美術手帖」より)