「普通にラッセンが好き」と言えない現代美術界へ
業界の話題をさらった『ラッセンとは何だったのか?』(フィルムアート社、2013)の刊行より早10年。クリスチャン・ラッセンとその周縁の文化現象を論じた評伝が「ラッセン本2」として上梓された。10年というのは受容の地平が変動するに十分な年月であり、ラッセン周りの動向も若い世代の認知度も大きく変わった。「売り絵画家」として敬遠されていたラッセンを大真面目に取り上げること。かつてはそれが業界内政治に閉じた現代美術界隈へのカウンターとなりえていたが、2024年の現在は果たしてどうか。本書の刊行を知って真っ先に気になったのは、いまラッセンを語ることの意義、そしてラッセン対する著者のスタンスだった。著者はラッセンの良き理解者なのか、俯瞰した視点を持つ冷徹な観察者なのか、ラッセンを通じて何を伝えようとしているのか? その答えの半分は明瞭、半分はいまだ薮の中、というのが本書を通読しての印象だ。
前半は知られざるラッセンの少年期から画家デビューまでを追ったバイオグラフィー。イラストチックな作風を嘲笑されがちなラッセンだが、ハワイのマウイ島で過ごした子供時代は抜きん出た描写力を誇るひたむきなお絵描き少年だった。その後、サーファー兼画家として地元のギャラリーで活躍、絵画販売会社アールビバンのバックアップを得て日本進出を果たす。一種軽薄な「インテリア・アート」として、またアールビバンの悪名高い商法と相まって、日本におけるラッセンの偏ったイメージが醸成されていくわけだが、著者は炯眼にもパブリックイメージを自ら引き受けて演じるラッセンの「本心の見えなさ」にポストモダニズム的な心性を読み取る。
中盤からはオーソドックスな評伝の範疇を超えて、ラッセンが繰り返し描いてきたイルカの図像学的解釈、アクアリウム的な絵画空間の分析、日本におけるラッセン受容の文化論的な考察が続く。新海誠やチームラボに「ラッセン的なもの」の類縁を見出す観点などはやや牽強付会に映るものの、なるべく日本特有の現象を拾い、ラッセンを通じて平成美術史を描出しようとする意気込みは確かに伝わる。当時の文化状況やビジネス上の思惑と連動してキメラ的に膨れ上がった存在こそがラッセンなのだから、本書のようなジャンルを横断する視点と複数種のアプローチの併用は対象攻略のすべとして必須なのだろう。
なぜここまでラッセンを?という疑問は残りつつも、卑近な話題も含めてラッセン現象の収束まで伴走した粘り強いリサーチは驚嘆に値する。自分にとって価値あるものを擁護することで理論的牙城の強化を図るのではなく、どんなに外面的にダサかろうが分析対象がまとうニヒリズムに徹底して付き合うスタンスに、ほかにはあまりないタイプの批評精神を感じた。