無数の「Re」の前で
自らを取り巻く情勢のあまりの目まぐるしい変化に、身体がついていかない感覚を覚えているのは、筆者だけではないはずだ。美術展を鑑賞し、拙い批評言語をなんとか構築し、対話を重ねていくという行為の反復そのものに、時折、虚無感を覚えることすらある。
その最中にも、世界中で大量のイメージが、展覧会が、生まれ続けている。見逃してはならない無数の再生産(Reproduction)、無数の表象(Representation)、そして、回収されないまま残り続ける無数の亡霊(Revenant)。それでもなお、美術の展覧会を振り返る(Review)意味はどこにあるのだろうか。
頭のなかで、終わりなく繰り返される「Re」。
「マリーナ・タバサム・アーキテクツ展:People Place Poiesis」(TOTOギャラリー・間)
Resilience(回復力)
日本で初紹介となるバングラデシュの建築家マリーナ・タバサム・アーキテクツ(MTA)は、土地固有の気候、文化、歴史に深く配慮しながら建築プロジェクトを継続してきた。とりわけ脆弱なコミュニティにおいて、人々の尊厳を尊重し、変化し続ける自然環境にいかに応答しうるかを建築から探究している点に、その実践の核心がある。

MTAを代表するプロジェクトのひとつが、バングラデシュのデルタ地帯における洪水多発地域で実践されてきた「クディ・バリ(小さな家)」である。気候変動と経済格差の拡大により、土地の所有権を持たない人々は、より危険な地域への居住を余儀なくされている。洪水によって土地を失い、恒常的な移動を強いられる人々のために、このプロジェクトはコロナ禍にMTAの自主研究として始動した。およそ一棟500ドルという低コストで、竹とスチールジョイントを用いた2階建て建築のモジュールが構想され、短時間で現地の人々自身が組み立てと解体を行える構造が実現されている。洪水や暴風雨にも耐えうるこの住宅は、災害後の仮設住宅であると同時に、人々が自らの手で生活を立て直すための具体的な実践でもある。ギャラリーの中庭スペースに設置された、日本の素材と技術によって再解釈された「日本版クディ・バリ」は、建築が固定された完成形ではなく、環境や文化に応じて翻案され続けるプロセスであることを明確に示している。MTAはまた、建築と社会的平等を推進するための財団「Foundation for Architecture and Community Equity(F.A.C.E)」を設立し、洪水リスクの高いバングラデシュ各地でクディ・バリの建設を継続している。重要なのは、誰がこの住宅を受け取るかについて外部が決定するのではなく、地域コミュニティ自身が話し合いを通じて自主的に決める点にある。
さらに、クディ・バリの構造的モジュールを発展させるかたちで、MTAは世界最大級の難民キャンプであるコックスバザールにおいて、ロヒンギャ難民の女性向けコミュニティセンターを設計した。とくに印象的なのは、利用者とのワークショップを重ねるなかで、密集したキャンプに住む女性たちがもっとも必要としているものが「庭」であると明らかになった点である。このプロジェクトで掲げられた「レジリエント・ランドスケープ」という概念が示すように、しなやかでありながら強靭な空間構成、地域素材の活用、コミュニティとの継続的な対話、そして装飾的表現よりも住空間そのものを重視するという、率直で一貫した建築言語は、マテリアリティ、思想、風土の横断を示している。

タバサムは国立新美術館で開催されたトークにおける素材についての質疑応答のなかで、まず「その土地へ行くこと」の重要性を語っている。クディ・バリが建設されている地域の多くは地図上では把握できず、そこで何が起きて何が必要とされているのか、どのような素材が適しているのかは、実際に現地に足を運ばなければわからなかったという。今日において建築は、環境に対抗する強さや美的・造形的な力を誇示するものではなく、変化を前提とした構えを取り続けることが強く求められている。「人々のために何ができるのか」という問いを真正面から引き受け、地域素材と光の扱いによって極めてシンプルなかたちへと結晶させるタバサムの建築は、人々が生を持続させる条件を整える営みとしてのレジリエンスの力を、確かに示している。なお、ベンガルのスクロール画「パトチトラ」と伝統的な刺繍技法「カンタ」から着想を得て、アリンジョイ・センとベンガルのNGO「SHE Kantha」の女性カンタ職人の共同作業によって生み出された《ベンガリ・ソング》(2023)という3連のタペストリーが、そのレジリエンスの力を象徴的に表現している。

「MAMスクリーン022:イキバウィクルル」(森美術館)
Resonance(共鳴)
森美術館「MAMスクリーン022」では、韓国を拠点に活動するユニット、イキバウィクルルによる映像プログラムが紹介されている。自らを「ビジュアル・リサーチ・バンド」と称し、苔や海草、植物、廃棄物といった、人間と非人間の境界に位置する存在を手がかりに、映像と音を用いたリサーチを行ってきた。本プログラムでは、代表作から近作まで5つの短編映像がループ上映され、断片的な感覚やリズムが連なって立ち上がる体験が用意されている。

プログラムの核であろう《海草の物語》(2022)は、イキバウィクルルが済州島の河道村に約2年通い続けるなかで、海女たちによって結成された合唱団とともに制作された映像である。作品を貫くのは、合唱団のオリジナルソング「済州アリラン」の歌声であり、日々海に入る女たちの生活をなぞりながら、過去の争いや住民の虐殺によって島が負ってきた傷の記憶を静かに孕んでいる。観光地としての明るいイメージとは裏腹に、済州島の風景の下には、なお消えきらない歴史の層が横たわっている。海女たちは互いを、海での生存を助け合う仲間としてとらえ、イキバウィクルルの「潜りは、仲間と共に」という言葉(*1)の通り、集団的な実践のなかで生を支えてきた。本作における歌声は、生存のためのレゾナンス(共鳴)なのだ。

《無題》(2023)は、わずか1分という短さのなかで、本展の構成的な特徴がもっとも端的に現れる作品である。板根と呼ばれる板のように地面に張り出した根や、地面に落ちる枝といった熱帯雨林の植生の断片が、軽快なテンポで切り取られていく。映像では、植物を象徴やメタファーとして読む余地が意図的に抑えられており、むしろ人間が植物を「鑑賞対象」として扱ってきた視線そのものが、静かに揺さぶられる。短いカットと弾むような編集は、重厚な批評性とは異なるかたちで、人間中心的な認識を外部から照らし返している。

《ゴミとダンスを》(2024)は、時間を大きく飛躍させた想像力によって構成された作品である。人類が消滅し、ゴミだけが残った未来に、弥勒菩薩が現れ、ゴミとともに踊り出すという設定は、シリアスな終末論を戯画化している。ここで重要なのは、批判や警告よりも、不要とされたもの、忘れ去られたものと、人間の身体がリズムを共有してしまうという感覚である。それは倫理的な要請によってではなく、「踊りだしてしまう」ことによって、世界との関係を半ば強制的に組み替えていくのである。
共通しているのは、人間と非人間の往還を壮大なストーリーとしては語らない点である。近年、美術において人間と非人間の関係性は頻繁に取り上げられているが、本展におけるイキバウィクルルの作品では、理論的な重さよりも、バンドとしてのアマチュア的な軽快さが前景化されている。同時にその背後には、作家たちが積み重ねてきたリサーチの厚みも確かに感じられる。たくさんの資料を提示するいわゆるリサーチ・ベースド・アートとは異なるかたちで、より幅広い鑑賞者に開かれた可能性を備えているとも言えるだろう。また、本展はシンプルでありながら映像の選出には明確な意図が感じられ、鑑賞体験全体のリズムやバランスにも配慮が行き届いている。それが作家によるものか、企画者によるものかは定かではないが、全体で20分に満たない構成であるため、ぜひ5作を通して鑑賞することを勧めたい(なお、本プログラムは18時から22時までの夜間上映のみである点には注意が必要である)。イキバウィクルルの映像は、完成度の高いメッセージを「届ける」ことよりも先に、「まず響いてしまうこと」を優先しているように感じられる。その弾むようなレゾナンスのなかに、じつはレジリエンスが潜んでいる。踏まれ、流され、忘れられやすい存在が、それでも境界にとどまり、関係を結び続ける。その持続のあり方を、説教的になることなく、複数の関係性が交差するリズムとして提示している点に、本展の面白みがあるだろう。
*1──会場での作品解説より。
「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着」(アーティゾン美術館)
Regeneration(再生)
石橋財団コレクションと現代作家の共演シリーズ「ジャム・セッション」の第6弾として開催された本展「漂着」は、沖縄出身の映像作家・山城知佳子と、東北を拠点に活動する写真家・志賀理江子という、異なる場所と時間を引き受けてきた2人の実践を、真正面から向かい合わせる試みである。タイトルの「漂着」は、偶然と必然、外部からの流入と内部からの応答という二重性を含んでおり、2人展でありながら、美術館の2つのフロアにおいて、それぞれの作家による大規模な新作インスタレーションが展開される構成は、たんなる並置や比較を超えた強い緊張を孕んでいる。

山城知佳子の《Recalling(s)》は、作家の父・山城達雄の記憶を起点に、沖縄、パラオ、東京、個人史と植民地支配の歴史を往還する映像インスタレーションである。揺らぐ個人の記憶は、失われゆくものとしてではなく、反復とズレを孕みながら「呼び戻される」運動として提示される。複数の映像と布によって構成された空間で鑑賞者は、達雄の記憶とともに、歩き、立ち止まる。会場に響く「ハイサイおじさん」の曲や一時的にはポリフォニーともなるそれぞれの映像の語りは、沖縄戦後史や米軍統治の記憶を呼び込み、ひとつの物語へと収束することなく、会場内を漂い続ける。

いっぽう、志賀理江子の《なぬもかぬも》は、回復や再建といった語彙を容易に引き受けない。宮城を起点に東北各地を巡る長期的なリサーチから生まれた本作は、志賀が偶然出会ったトラックのフロントスクリーンに掲げられていた「なぬもかぬも」という言葉を手がかりに、災害後の土地に残された記憶や身体感覚を掘り起こす。ターポリン素材による巨大な写真絵巻の内部を歩く鑑賞体験は、来場者を安定した視点から引き離し、泥や内臓、縄、漂着物といったイメージの連なりのなかへと巻き込んでいく。そこでは、均質化や効率化の名の下に押し並べられてきた個々の経験が、蛙の声の響きとともに、なお解消されないかたちで立ち現れる。
ジャムセッションという企画の核である石橋財団の収蔵作品は、本展では安定した参照点というよりも、2人の作家が立ち上げる記憶や身体の運動のなかへ、別のReとして漂着しているようである。この試みの評価は容易ではないが、美術館という制度空間のなかでは、コレクションと現代美術の美しい調和ではなく、むしろ否定形として経験されうるレゾナンスを生み出している。
加えて、レジリエンスという概念も本展では素朴には肯定されない。沖縄でも東北でも、レジリエンスを発揮することすら困難なほどに、異なる位相の歴史的なトラウマ(「現存する過去」)を抱え(*2)、生は、繰り返し剥奪されてきた。その事実は、作品の背後に前提として横たわり、回復や強靭性を語るストーリーそのものにさえ疑問を投げかける。


それでもなお、本展が端的な絶望に閉じることはない。呼び戻し(Recalling)と、否応なく引き受けざるをえない応答責任(Responsibility)を経た先で、再生(Regeneration)は完成形としてではなく、ごくかすかな兆しとして立ち上がる。それは明確な未来像ではなく、漂着したものを前に立ち止まり、関係を結び直そうとする身振りに宿る。本展が示すのは、再生とは到達すべき目標ではなく、なお問い続けられるべき不確かな過程であるという感覚である。
*2──北村毅「山城知佳子の作品が拓く記憶とケアの倫理的な地平──沖縄の歴史的トラウマをめぐって」(本展図録、129-134頁)を参照。北村は、「沖縄学の父」と称される伊波普猷の議論を引きながら、沖縄においては「レジリエンス」を発揮することすら困難なほどに力を奪われた状態にあるという伊波の実感は、決して過去のものではないと指摘している(131頁)。なお、本レビュー筆者は、この指摘は歴史的条件や位相を異にしつつも、東北においても検討されうる問題であると考える。
レジリエンス、レゾナンス、リジェネレーション……3つの展覧会を通して浮かび上がってきたたくさんのReは、否定であり、肯定であり、逃れられない過去であり、生存のための現在であり、いまだ名付けられていない未来でもある。世界が加速し、ひとつの出来事が回収される前に次の出来事が押し寄せるなかで、一度立ち止まり、振り返らざるをえないというその反復のなかに、それでもなお展覧会へと向かってしまう理由が、かろうじて残されているのかもしれない。































