「分けられた」記憶をたどる旅
「鄭梨愛 私へ座礁する」(CHODEMI 〈朝鮮大学校美術科〉)
まず、事前に訪問の日時を決めておき、大学関係者に連絡を取る。大学の敷地に入る前に、名簿に名前を書いて受付。この過程を経なければ、CHODEMIに入場することはできない。アートスペースは「開かれた場所」であるべき、という言説が当然のように口にされるなか、作家や企画者が意図しない政治的な理由から「開けない場所」に、この展覧会はある(*2)。
本展の主題として横たわっているのは、朝鮮という場所をめぐる個人史である。1991年日本に生まれた鄭梨愛は、2018年に朝鮮大学校研究院総合研究科美術専攻を修了し、自身のルーツと向き合いながら作品を制作している。本展においても、在日朝鮮人4世である自身とその家族、そして故郷の土地に思いを馳せた作品が中心となっていた。
会場は決して広くはないが、中心となる作品のひとつ《ある土地の詩》(2019)が鑑賞者を軽やかに迎え入れてくれる。この作品は、透ける薄い布にテキストや写真を印刷したものだ。いくつかの布には、鄭自身の家族、とりわけ祖父の生前の思い出とその弔いをめぐる個人的な物語と、韓国民主化運動の象徴的存在であった詩人・金芝河の代表作「黄土の道」などの詩が並列的に綴られている。とりわけ印象的なのは、家族の死を悼んで残された人々が土饅頭(*3)をつくった記憶の描写だ。開けられたドアから入る風のなかに揺蕩う布に照明が当たってきらきらと輝く様は、まるで朝の海を眺めているように美しい。

天井から吊るされた布と布は、空間の中央にまっすぐな道をつくっている。その先にはスクリーンが置かれ、《ある所のある時におけるある一人の話と語り聞かせ》(2015)、《沈睛歌》(2018)、《Island_drawing 10》(2023)という三篇の映像作品が上映されていた。

なかでも《ある所のある時におけるある一人の話と語り聞かせ》は、病床に臥す鄭の祖父と、彼が生前に初めて故郷に帰ったときの映像をつなぎ合わせた作品である。しかし、祖父が日本移住後初めて故郷へ帰った際の映像を撮影したのは、鄭の母であり本人ではない。これは、韓国籍の母と朝鮮籍の父のあいだに生まれ朝鮮籍を継いだ鄭が、韓国への渡航を許可されなかったためだ(*4)。母のまなざしを通じて記録される故郷での祖父の姿は、鄭にとって「伝聞」としての物語である。そこには、朝鮮語をすぐに思い出せず言葉を探す日本在住者として、思い出話に談笑する朝鮮人家族の一員として、そしてこの地を長く訪れることのできなかったことを両親の墓前で詫びる在日朝鮮人一世として、鄭の祖父が生きた人生の様々な片鱗が映し出されていた。この一連の映像は、それぞれの国家にとって都合の良い視点から編集された大文字の歴史ではなく、鄭の祖父が人生をかけて形成したアイデンティティを次の世代へとつないでいく記録であるといえる(*5)。

*2──朝鮮大学校をはじめ朝鮮学校は、制度上での分断のみならず、しばしば日常のなかで不条理なヘイトクライムの対象となってきた。朝鮮学校生へのヘイトクライムと学生たちによる抵抗については参考文献の金汝卿の論文(2022)を見よ。
*3──遺体を土葬し、土を丸く盛り上げて封墳をつくる韓国の埋葬方法。鄭の作品内テキストによれば、全羅道の土は黄土色が特徴であり、この土を棺にも入れることであの世とこの世をつなぐ黄泉の道をあらわすのだという。
*4──戦前には在日朝鮮人は日本国籍者とみなされていたが、日本政府は1947年に外国人登録令を発布し、当時の朝鮮半島が有効な独立政府の誕生前だったにもかかわらず、これらの人々の国籍を「朝鮮」として登録した。しかし、大韓民国政府が成立し制度上で「朝鮮」という国家の存在がなくなったため、「朝鮮籍」が特定の国籍を表示することができなくなった。しかし、自身のアイデンティティを保持するなどの理由で朝鮮籍を保持する者は少なくない(金セッピョル・地主麻衣子、2021、84頁)。朝鮮籍保持者は北朝鮮を通じてパスポートを所持できるものの、このパスポートでは韓国への入国ができない。韓国政府を通じて臨時パスポートの発給を受けることで朝鮮籍者が韓国へ入国する事例もあるが、この臨時パスポートが許可されるかどうかはそのときの政権が南北関係をどう考えるかによって流動的であり、作品制作当時は韓国政府から鄭に許可が降りなかった(金セッピョル・地主麻衣子、2021、63頁)。
*5──荒田詩乃(2025)が収録したインタビューには、鄭が近年取り組んでいる長生炭鉱の遺骨発掘についてなど、作家の重要な活動が記録されている。こちらの記事もあわせて読まれたい。



















