装いをとりはらい、多様と受容の黎明を祝福する
「……まわりました。”カチン”」(*1)
本作品は、オル太が東京都墨田区東向島について行った、主に関東大震災、その混乱下で起こった朝鮮人虐殺事件、かつて玉の井と呼ばれていた私娼街や皮革工場エリアならびにそれらに従事する労働者に関するリサーチがベースとなっている。彼らは赤瀬川原平の路上観察や今和次郎の考現学などを参照しながら、再開発とそれに伴う経済や文化活動の活発化により一掃されていく都市の歴史と人々の営みを掘り起こすべく、現地を歩き、見聞きし、スケッチし、ネットも駆使し、わずかな痕跡や細部をも観察し、記述するという手段をとる。こうして採集された現代社会の諸相──約100年の地層に覆われた地域の歴史的・社会的背景、その忘却と上書きによりまったく異なる光景と化す現在、そして未だ現行する人種、階級、属性による差別と格差、人権問題──をいかに表象するか。その鍵のひとつが、オル太がシリーズ前作から取り入れた演技という手法にあるように思える。このことについて、演じる場と所作というふたつの観点から、本作における「超衆芸術スタンドプレー」の意義の解読を試みたい。
まず、演じる場について。その場は2段階に分かれる。
先に舞台と観客という従来の演劇の構造がある。会場は墨田区東向島にある元町工場。入ると片側に舞台セットが並び、観客はその前に置かれたスツールに座る。この舞台には生身の身体による上演はない。並べられたセットは幕開けの予感、終演後の余韻を醸し出しながら、いまや用途を失った工場の闇に佇む。オル太の言葉を借りて、演者と物語のゴースト化といえばいいだろうか。中央に配されたスクリーンの光が闇の深さを演出する。
ふたつめの演じる場はその光、映画である。映画は「都市になりかけた建物」「忘却の放水路」「串」「銀座から玉ノ井」の4章からなる。内容は、過去に生きた観察者による記述や描写(小津安二郎、今和次郎、釈迢空、永井荷風、竹久夢二など)と、いまを生きるオル太が見聞きした観察の再現が織り交ざったものである。映画の形式をとることにより、セット変更などによるシーケンスの分断なく、そして、たびたび挿入されるリング上に置かれたセットの旋回するさま、モニタに映るテキストの朗読、棒読みのナレーションとセリフが功を奏し、過去と現在、史実とその解釈のありさま、現実とフィクションが入り交じる。観察と夢想の境界が曖昧になっていく。
映画を見ていくうちに、セットはこの映画で使用されたものだと気づく。すると、ライヴに展開される演劇の世界と、再現を主軸とする映画の世界という異なる時間軸が現前しはじめる。地域性が消滅し、亡霊と化しているという現実、観察と記述を手がかりに可視化され得た事象、この両極のイメージがライヴ(演劇)と再現(映画)というふたつの場で同時進行する。
そして演じる所作について。この点は、演技のつたなさがために印象づけられた、再現シーンにおける性の入れ替えとその発想にある。この手法により、本作における問題提起が地域に固有で個別なものという枠を超え、より普遍的なものとなり、さらに私たち鑑賞者にも当事者意識を持たせることに成功している。
過去の観察者による記述と描写を演じるときの性別は、ほとんどの場合において記述の通りである。いっぽう、現在、つまりオル太による観察の再現シーンのなかに、女性だったであろうと思われる登場人物が男性によって演じられている箇所がある。例えば、第1章前半、ある日の銭湯の再現シーン。女湯側で会話する人々は男性によって演じられている。抑揚ある高い声と柔らかく曲線的な言動が強調される。あるいは、第4章の居酒屋のシーンでは女将を男性が演じている。ここでも高めで柔らかな口調、加えて長い髪を緩くシニヨン風にまとめたスタイルのかつらの不恰好さが目立つ。どちらのシーンにおいても、会話の内容だけに耳を傾ければその主語の性は問われない。ただ、強調されたしぐさ、口調、装いはいわゆる「女性らしい」というカテゴリーに属されてきたものだ。ここでオル太の活動の初期から一貫している制作スタンスに立ち返ると、その理由が見えてくる。
オル太は、人々が無意識に構築し持続させている固定観念とその弊害について問う。活動の初期から彼らがそうしてきたように、こうした問題に等身大で向き合い、原点に立ち返り、自らの身体に取り込む。そして、人間誰もが生来直面しつづけ、後天的に植え付けられ、また葛藤する社会的性別を例に、日常のいたるところで見聞きされる「らしさ」の振る舞いを演じる。この視点に立つことで、外部の観察者(オル太)が当事者へと切り替わり、出来事の渦中に身をおくしかけも見えてくる。
第2章には、映画『東京物語』(小津安二郎監督、1953)の一場面、尾道の母と東京に住む息子の妻との会話をオル太が再現する箇所がある。都市の急速な近代化とそのなかを生きる心情の機微を描く場面に性の入れ替えが重ねられる。終わりはモノクロ、スローモーションへと切り替わり、カチンコが入る。このシーンには本作におけるオル太の試みが象徴的に醸し出されている。
こうしてオル太は、地域と人々の営みの歴史とその変遷が消し去られないように、不可視化されているものを様々な痕跡から掘り起こし、観察し、それらを崩さぬよう身体にすり込み、語りべとして紡いでいく。格差や差別がもたらす社会的な制限、有形無形の障壁を、誰にも関わる性役割(ジェンダー)という点、そのイメージを演じることで問う。
私たちがいま生きる社会はジェントリフィケーションが加速するなか、固定観念や差別の払拭、多様性の受容、ジェンダー平等からはほど遠い。意見を発信することはもちろん重要である。ただ、実践を伴わない発信は、残念ながら発信者の自己正当化、身分や地位安定と権力の強化となり、保守への逆光に転じることも多い。だからこそオル太は動くことから始める。身近に人を思い演技をする。演じることで地域性の豊かさを受け入れ、偏見と凝りをほぐそうとする。こうして「スタンドプレー」は、その先にある多様で柔軟な未来を展望するものへと変化をとげていく。
*1──本作品《超衆芸術スタンドプレー 夜明けから夜明けまで》(2020)の映画の冒頭シーンより。”カチン”とはカチンコを鳴らす音である。