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REVIEW - 2020.5.18

三上晴子が予言した「被膜(皮膜)世界」。椹木野衣評 緊急事態下の展示とバイオハザード

新型コロナウイルス感染拡大の影響で、多くの美術館で展覧会を「見に行くことができない」状態が続いている。アーティスト・三上晴子のコンセプトであった「被膜(皮膜)世界」は、防護服やマスクの意味も一変した現在の生活と、その奇妙さを示すものだった。三上の作品を手がかりとして、こうした状況を椹木野衣が論じる。

文=椹木野衣

ヒューバート・ウィンター・ギャラリー(ウィーン)でのグループ展「flowers of sulphur」(2019)の展示風景より、三上晴子作品の展示風景
Photo by Simon Veres Courtesy of Galerie Hubert Winter, Vienna, 2020
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見に行くことができない展覧会

 新型コロナウイルス禍のもとで見る美術展には、それまでにない奇妙な空気感が漂っている。空気感ではなく、実際に異なる空気が漂っているということなら、そのような状況下で見る美術展が過去になく奇妙な体験にならないはずがない。

 入り口で手をしっかり消毒し、マスク越しに空気を吸い、施設の備品との接触を極力避け、人と人とのすれ違いにも身構えてしまう。カタログの見本を手にするのもどこかはばかられる。そんな展覧会は、作品を見るために目を行使する以前に、際立って身体的だ。現代美術のひとつの傾向として、視覚への優先主義を批判するために身体の感覚を惹起するというような試みとも、まったく違っている。身の危険に発しているからだ。

 しかしそれ以前に、見に行くことのできる美術展がめっきり減った。いくつかの展覧会では、無事に展示を終えているにもかかわらず、見に行くことができない。例えば、東京都写真美術館での「写真とファッション」展は、3月3日の開幕が現時点で5月7日以降にまで延ばされ、そのあとどうなるかについての予告はまだない。この展覧会の会期はもともと5月10日までなので、仮にそれ以上延ばされるようなことがあれば、展示としてはきわめて不完全なことになってしまう。東京五輪に合わせて鳴り物入りで企画されていた大規模な展覧会――例えば国立西洋美術館での「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」展や、東京都美術館での「ボストン美術館展 芸術× 力」が、これとよく似た状況を余儀なくされている。このまま会期を終えてしまう恐れもないとは言えない。

伝 狩野永徳 韃靼人朝貢図屏風 桃山時代(16世紀後半)
Museum of Fine Ar ts, Boston, Fenollosa-Weld Collection (C) Museum of Fine Arts, Boston
「ボストン美術館展 芸術×力」より。東京展は中止。福岡市美術館、神戸市立博物館へ巡回予定。最新情報は 公式HP参照
国立西洋美術館「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」展の会場風景。
左は、フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(1888) 写真提供=読売新聞社
開幕延期、会期は6月14日まで(予定)。詳細は 公式HP参照

 何から何まで前代未聞だ。私は2015年から福島県浜通りに広がる立ち入り封鎖地帯、帰還困難区域で展示中の、見に行くことができない展覧会「Don’t Follow the Wind」の実行委員に加わり、運営や展示に関わってきた。同展が「見に行くことができない」のは、この区域が福島第一原発事故で放出された放射性物質によって、長期間にわたり高濃度のまま汚染され続けているからだ。しかし、蔓延しつつある(同じく目に見えない)新型コロナウイルスは、放射能汚染ではないかたちで、それも首都のど真ん中で開かれる展覧会を「見に行くことができない」状態にしてしまった。これは、実験的な試みであった「見に行くことができない」状態が、ごく身近で常態化してしまっていることを意味する。

 防護服やマスクの意味も一転した。原発事故のもとでは、防護服やマスクは外から降りかかる放射性物質を体内に入れないために着用された。新型コロナウイルスのもとでもそのような防護の意味はむろんある。だが、それに加え、自分自身が発しているかもしれないウイルスを外部に漏らさないために何より必要とされる。防護服やマスクという人工的な皮膚のむこう側(外界)とこちら側(身体)との受動、能動の関係が逆転しているのだ。その先にあるのは、煎じ詰めれば「家にとどまる」である。これは自分自身をまるごとマスクの内側に閉じ込めてしまうに等しい。いわば自分=家、という事態なのだ。

 グローバリズムを推し進めた果てにあったのが、どこまでも拡張する自由な地球=世界ではなく、目の前の小さな在宅(オタク)であったとは。何せ玄関から出てはいけないのだ。世界と家とのギャップに驚くほかない。

東京都写真美術館「写真とファッション 90年代以降の関係性を探る」展より、
PUGMENT《Materials and Recipes》(2020)の展示風景 撮影=小山貢弘
開幕延期。詳細は 公式HP参照

 被膜(スキン)と梱包(パック)──それで思い出した。前に本欄でも取り上げた香港の大館当代美術館で、今年の1月まで「Phantom Plane, Cyberpunk in the Year of the Future」と題し、サイバーパンクとアート、サブカルチャーをつなぐ展覧会が開かれた。サイバーパンクと「ウイルス」(コンピュータ・ウイルス?)は非常に相性が良いテーマに違いない。

 私はこの展覧会を見れていないのだが、そのなかで三上晴子が90年代初頭に発表した、フェイクの汚染されたオブジェクトを透明のスーツケースに収める連作の展示が計画されていた。しかしこの作品は実際には展示されなかった。というのも、3つの連作はそれぞれが放射能汚染、毒ガス空気汚染、ウイルス 細菌汚染(バイオハザード)に該当しており、オーストリアのギャラリーからスーツケースの形状で空輸されてきた作品について、美術館の担当者が本当に汚染されているのか、それともフェイクであるのかを見定めるのが難しく、またカビによる汚損も激しかったため、最終的に展示を断念したようなのだ。

 それにしても、いわば世界中が本当のバイオハザードに見舞われる直前まで開かれていたこの展覧会で発表される予定であった、一連の三上作品の現在における迫真性は異様だ。なかでも当のバイオハザードを扱った作品は、現在、欧米で想像をはるかに超えた医療崩壊が起こり、使い捨ての汚染医療器具が山積みとなっている極限的な状態を生々しく想起させる。現在のようなパンデミック下でなくても、慎重になって当然だろう。

 この連作は、さらに二つの点で容赦のない批評的な思索を導く。まず、透明なスーツケースに収められた汚染物質という体裁にあるとおり、作品は「航空機による輸送」を念頭に入れている。加えて本作は、飛行機の輸送貨物を乗客が受け取るベルトコンベアを思わせる台座に載せられる。つまり、三上のなかで汚染の拡大と飛行機は切り離しがたい関係になっていた。これはパンデミックが何より飛行機によるヒトとモノの輸送のグローバルな加速化によって推し進められた現状を想起させる。だからこそパンデミックを減速させるには、論理的に言って飛行機を止めるしかないことになるし、事実そうなっている。これは飛行機、とりわけLCC(格安航空会社)が現在のアートを引っ張る原動力となってきたことを考えたとき、きわめて批評的=危機的(クリティカル)だ。実際、アートフェアも国際展も芸術祭も飛行機あってのことだった。

ヒューバート・ウィンター・ギャラリー(ウィーン)でのグループ展「flowers of sulphur」(2019)の展示風景より、
三上晴子《The World Memorable: Suitcase Biohazard Autoclave Bags》(1993) 
Photo by Simon Veres Courtesy of Galerie Hubert Winter, Vienna, 2020

 もう一点は、これらの連作が三上による「被膜(皮膜)世界」(WORLD MEMBRANE)というコンセプトに基づいて構想されていたということだ。汚染された外部と、汚染から守られる内部世界を隔てるのは、壁のように堅牢な物体ではない。皮膚のように薄い被膜=皮膜だ。その意味では、マスクや防護服も被膜=皮膜の一種なのだ。それは究極的にはウイルスや細菌が侵入する生体の被膜=皮膜としての粘膜を守るためにある。こうして、膜による膜への防護が複数化し、ついには三上の呼ぶ「被膜(皮膜)世界」が構成される。

 つまり、「自分」とは被膜=皮膜によって皮一枚で隔てられた「むこう/こちら」の関係でしかない。それは国境や壁によって寸断されてきた世界とは真逆のシステムに基づくものだ。いくら国境や壁を堅牢にしても、放射能や毒ガス、生物学的汚染は、それらをやすやすとすり抜け、その「むこう/こちら」にいるヒトの粘膜を通じて内部へと難なく侵入する。粘膜を守れるのは、使い捨ての(従って廃棄物として蓄積する)被膜=皮膜でしかない。どんなに薄く、防護性が高くても、生体を守れば守るほど、それらは取り扱いが難しい廃棄物として物量化していく。それもまた「被膜(皮膜)世界」の特徴だ。

 そうして私たちはいま、まさしく「被膜(皮膜)世界」のさなかに取り残された。美術館の中にいてさえ、そうなのだ。本稿の冒頭でふれた「奇妙さ」とは、そのことだった。三上の連作は、その到来を恐ろしいほどわかりやすく示していたことになる。ほとんど予言的であったと言えるほどに。(2020年3月29日記)

『美術手帖』2020年6月号「REVIEWS」より)