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REVIEW - 2020.1.24

芸術祭における通俗性。清水穣評「美術館の終焉─12の道行き」「IF THE SNAKE もし蛇が」

「アート・プロジェクト KOBE 2019:TRANS-」でグレゴール・シュナイダーが神戸市内各所に展開した「美術館の終焉─12の道行き」、ピエール・ユイグをアーティスティックディレクターに迎え2回目の開催となった岡山芸術交流の「IF THE SNAKE もし蛇が」、ふたつの国際芸術祭を清水譲が評する。

文=清水穰

グレゴール・シュナイダー「美術館の終焉―12の道行き」より、第3留:旧兵庫県立健康生活科学研究所での《消えた現実》(2019)展示風景

月評第125回
蛇の道行き─通俗性について

 今年、神戸と岡山という中規模の地方都市で行われた国際芸術展は、どちらも卒なく楽しめる上質なものであった。それは、前者は林寿美、後者は那須太郎とピエール・ユイグというコンパクトな企画主体によってすっきりと整理された芸術展となったことが功を奏したのだろう。この規模で良いから定期的に開催してほしいものである。それを前提としつつ、その卒のなさは、現下の文化庁が助成金を撤回しない程度の予定調和に早くも通じているようにも思えた。あえてヒロヒトや慰安婦を主題としなくても国際的に通用する(「社会的関与」の)芸術祭は十二分に可能だよ、と。それはその通りだが、通用するあまり通俗に堕す危険がある。現代美術の通俗性とは、人口に膾炙した可愛いキャラクター(草間彌生?)を用いることなどではなく、誰が見てもとりあえず是とする中立性がそこにあることである。中立性はいわば裁判官の場所であるから、法やルール(もちろん可変)に従うことが前提である。それは教育や啓蒙、すなわち社会的馴致と、密接に関わっている。「先生」と「学校」、つまりアカデミックな権威や制度、そしてそれを共有したうえでの「相互理解」と「コミュニケーション」が大好きだということてである。「檸檬」は嫌いだ、と。現代美術の世界は、とりわけ21世紀になって金融市場とリンクするにつれ極端に教育的、啓蒙的、制度的になった。画一化したと言っても良い。昨今のビエンナーレやトリエンナーレは、それが一定の水準に達していればいるほど、画一的である。「あいち」で小波が立ったのは、現下の日本社会が遠く画一化以前だからである。誰が「あいち」の小波を惜しむだろうか。と同時に、誰がこんな抑圧的な画一性で満足するだろうか。

恐ろしさをはらんだシュナイダーの世界

 ナチによる表現弾圧の過去への反省から、戦後の西ドイツは積極的に現代美術を涵養し、とりわけラインラント地方は、デュッセルドルフやケルンを核としてその中心地となった。グレゴール・シュナイダー(1969年生まれ)は、そのラインラントで育った早熟な(初個展は1985年)才能をコンラート・フィッシャー(1939〜96)に見出され、93年に同ギャラリーでの初個展を開くや注目を浴び、以降、四半世紀にわたってアートワールドの最前線で活躍している。

 早熟の作家によく見られることだが、すでにデビュー作品においてその作家の本質が完全に表現されており、その後の作品はすべてそのバリエーションとして展開される。シュナイダーもまた、最初期から首尾一貫して2つのことを表現し続けている。ひとつは「いま・ここ」の世界に別の世界を重ね(入れ子にし、分身をつくり)、それを幻視すること。歴史への追憶(「兵どもが夢のあと」)であり、反世界の招来(「花も紅葉もなかりけり」)であり、地縛霊や怨霊の霊視である。もうひとつは、トポロジーでいう「近傍」の概念である。平面上に円を描いて円の内部Aと外部Bに分ける。円い境界線がBに属するとき、Aは限界を持たない、つまり無限である。シュナイダーを引き寄せてやまない、完全に隔離された世界の無限の内部世界、それは囚人の妄想であり、孤独死した引きこもりの独身者の万年床の部屋に沈殿した日常であり、 昔話の定番「決して開けてはならない」部屋である。2つを合わせてシュナイダーの作品は、見慣れた現実には眼に見えない様々な世界が重なっている、あなたの近傍に完全に閉ざされた無限の世界が広がっていると、呟き続ける。

 この呟きは、もし美術館の中で「鑑賞」されてしまえば、「怖くて楽しい」ホラー映画と何も違わないだろう。外界を遮断して鑑賞に集中させる美術館の制度は、シュナイダー作品が招来するアナザーワールドを、怖くて楽しい「フィクション」として無害化する。だから、美術館よさようなら、霊場神戸を舞台に、第1留から第12留まで「すべて実話です」、というわけで、 なかなかぞっとさせてはくれた。だが、例えば新長田地区ひとつとっても、シュナイダーの留はその被差別の実話=歴史の表層をかすめるだけである。演出が歴史に勝っているのだ。だからほとんど演出のない第3留(旧兵庫県立健康生活科学研究所の動物実験棟)がもっとも印象に残った。収容動物の叫び声もアーモンドの残り香もなかったが、屋上の焼却炉は十分アウシュヴィッツを連想させた。現実世界に中立性はない。

グレゴール・シュナイダー「美術館の終焉―12の道行き」より、第12留:丸五市場《死にゆくこと、生きながらえること》(2019)の展示風景 Photo by Gregor Schneider (c)Gregor Schneider/VG Bild-Kunst Bonn

岡山芸術交流2019

 神戸では「道行き」、岡山では「蛇」と、中立性のフレームには聖書が便利なのだろうか。(カミーユ・アンロの個展も「蛇を踏む」で、発想が被っている)「もし蛇が」イヴを誘惑しなかったら、人間はエデンの園で、無垢のまま永遠の生を営んでいただろうに、蛇の誘いにのって知性を手に入れ、死すべき存在となった。禁断の知(原子力、自然破壊、遺伝子操作……)のせいで人間は死ぬ、いや、知をさらに発展させて(AI、量子コンピュータ、宇宙開発、細胞再生……)死を克服できる、と。「もし蛇が=知が」、すなわち「知が選択する複数の未来」という題名は、そこに含まれないものがないという意味で、無意味で無害である。加えて日本人作家を一切入れない人選(オリエント美術館で、環境音のスペクトログラムを美しい織物に変換したミカ・タジマは日系アメリカ人作家)が、さらに中立性を高めている。制度を前提とした現代美術ゲームの無意味な形式性は、作品に添えられた解説文にも露で、おそらくAIが書いたのだろう。

「岡山芸術交流2019」より、写真上がジョン・ジェラード《アフリカツメガエル(宇宙実験室)》(2017)、手前がパメラ・ローゼンクランツ《皮膜のプール(オロモム)》(2019) Photo by Ola Rindal Courtesy of the artist, Thomas Dane Gallery and Simon Preston Gallery Courtesy of the artist, Karma International, Miguel Abreu Gallery and Sprüth Magers

 とはいえ、無意味な題名は作家に何も強いることがない。漠然と上記の「蛇」「未来」「生死」「宇宙」「終末」「AI」「環境」そして「イヴ〜女性」というお題が見え隠れはするものの、基本的には各々の作家がそれぞれの個性を生かした見応えのある作品を出していた。私はとりあえずアルファベット順でA会場から回ったが、それは図らずもベストなナヴィゲーションであった。旧内山下小学校会場に近づくと、隣接するビルの壁面に鮮やかな巨大スクリーンが現れる。無重力空間で無力に浮かび続ける蛙の映像(ジョン・ジェラード作品)は、撮影者の位置を特定できず、驚いたことにループしないので、目を離すことができない。ゲーム映像とのかすかな類似から、それがCG映像であることに気がついたときにはすでに、この芸術交流に乗せられている。優れた導入作品を横目に小学校に入ると、ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニが制作した、惨劇の後のような立体コラージュと、そのメイキングのようにも見える終末観満載の映像が、建物のほぼ全体を使い切る統一感とともに強い印象を与える。続いて、別棟、プール、校庭、土俵、体育館……と、作家たちの面白い展示が付かず離れず巧く連鎖しており、相部屋のような通常の国際展とは一線を画す優れた展示なのだった。紙幅も尽きたので途中は省略するが、最後に回ったのは岡山城不明門のリリー・レイノー=ドゥヴァール作品で、裸のダンサーがほかの会場作品の前で踊り続けるヴィデオは、交流展での日の良い反芻となった。言論表現の弾圧がいよいよ顕在化してきた日本では、「複雑な現実」を「忖度」するために、様々な芸術祭が、複数名による民主的な合議制をとるだろう。合議制は中立性の誘惑に陥りやすく、民主制は、最悪の事態(原爆投下とか)を防げる代わりに、最高のものは決して生み出さない制度である。それでも、近い将来の芸術祭が、平均的で画一的にならない可能性に期待したい。

「岡山芸術交流2019」より、ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ《反転資本(1971〜4936)、無人、シーズン2、エピソード2》(2019) Photo by Ola Rindal Courtesy of the artists
「岡山芸術交流2019」より、リリー・レイノー=ドゥヴァール《以上すべてが太陽ならいいのに(もし蛇が) 》(2019) Photo by Victor Zebo Courtesy of the artist

​(『美術手帖』2020年2月号「REVIEWS」より)