月評第123回 二軍の抽象
2006年の「エッセンシャル・ペインティング」展もそうだったが、国立国際美術館は時々思い出したように、主に欧米作家の絵画をショーケース的に展示する展覧会を開催する。本展「抽象世界」もそのひとつだが、この展覧会から見える「抽象」とはなんだろうか。
どんな絵画であろうと「具象的なイメージから抽象的画面が生まれ、抽象絵画から具象が発見される」(「抽象世界」図録より)のであり、写真ではその事情はデフォルトである(写真とはつねに「何かの写真」である)から、そもそも絵のモチーフや被写体の形態(不定形か定形か)によって具象・抽象を分けることはナンセンスである。つまり描かれたものの形態とは独立に、抽象画とは絵画の本質を抽出し、それだけを表現する絵画のことである、と。
周知のように、クレメント・グリーンバーグにとって、その「本質」とは「平面性」のことであった。それは現在でも(画像処理ソフトの基本単位をなしているくらいには)支配的な視覚の制度、「レイヤー」である。「モダニズムの絵画が自己の立場を見定めた平面性とは、決してまったくの平面になることではありえない」。つまり、モダニズム絵画が己の本質と定めた平面性とは、物理的な平べったさを追求することではない、と(コラージュのように紙片が重なり合っていてもOK、極端な話、立体でもOK)。「絵画平面における感性の高まりは、彫刻的なイリュージョンもトロンプ・ルイユももはや許容しないかも知れないが、視覚的なイリュージョンは許容するし許容しなければならない」。意識の高いモダニストは、生き写しのような絵もだまし絵ももはや認めないが、絵を見る以上は、そこに描かれているものがたんなる絵具の擦り付けではなく、なんらかのイメージであるというイリュージョンは容認する、と。「表面に付けられる最初の一筆がその物理的な平面性を破壊する」。「最初の一筆」によって、それと支持体面のあいだに(それゆえ三次元性と言われる)レイヤーが出現し、全体がたんなる物体の表面から「画面」となるため、「物理的な平面性」は破壊される、と。「それは厳密に絵画としての、つまり厳密に視覚的な三次元性なのである(*1)」。
「晩年のモネ」はまさにこのレイヤー(「厳密に視覚的な三次元性」)を描き続けた。人が見るものは水面に映った空や雲や木々と、睡蓮だけであるが、両者のあいだに水鏡=レイヤーが出現する。それはデュシャン流に言えば、脳内知覚(「グレイ・マター」)であって「網膜的」ではない。グリーンバーグの純粋視覚的平面とは脳内で生じる、不可視の平面なのだ。「こうして、枠に張られただけのキャンバスでもすでにして1枚の絵として存在する─必ずしも成功した絵ではないが(*2)」。絵画の本質はレイヤーにあるが、それは脳内知覚であるから、見ようと思えば(「感性の高まり」)どこにでも、白いキャンバスにも、見ることができる。ただし、それは観者の脳に100%依存する絵であるから、成功した絵画とは言えない、と。
グリーンバーグのこの発言こそ、「絵画の死」の宣告でなくてなんであろう。抽象画とは、具象画からレイヤーを抽出した絵画のことだが、レイヤーとは実際には非在で不可視の平面であり、その認識は脳内知覚として見る人それぞれに依存しているから、既製品のキャンバスでさえ絵画として成立しうる、と。すなわち、区切られた面さえあれば、絵画にならないものはない。レイヤーという本質に還元された絵画は、全肯定されることによって、死んだのである。
さて2019年(!)の「抽象世界」を見てみよう。出展作家は13名。ラウル・デ・カイザー(2012没)、フランツ・ヴェスト(2012没)、ギュンター・フェルク(2013没)、エルズワース・ケリー(2015没)、ダーン・ファン・ゴールデン(2017没)。ジョン・アムレーダー(71歳)、ミヒャエル・クレバー(65歳)、クリストファー・ウール(64歳)、ハイモ・ツォーベルニク(61歳)、ウーゴ・ロンディノーネ(55歳)、トマ・アプツ(52歳)、スターリング・ルビー(47歳)、リチャード・オードリッチ(44歳)。このうち、ケリーをはじめとして、フェルク、ゴールデン、アムレーダー、クレバー、ウール、ツォーベルニク、アプツ、オードリッチは、レイヤーを示しさえすればなんでも絵になるという、絵画の全肯定の死に体を、それぞれの仕方で演じているだけで、グリーンバーグで行き止まりの、2019年に見れば老残の痛々しさを感じさせなくもない、古臭い作家たちと言えるだろう。彼らがアートワールドでいくらか脚光を浴びているのは、リーマンショック以降そこに流れ込んだ資本に対して、売るべき作家・作品数が足りないからにすぎない。マーケットの圧力が(昔の、中堅の)二軍作家をも表舞台に押し出しているわけである。ケリーと写真(影というレイヤー)、フェルクと鉛板(支持体の存在感によりレイヤーを意識させる)の関係など興味深い論点はあるが、紙幅もないので「それぞれの仕方」については省略。
ラウル・デ・カイザーにとって、絵画はなんでもありではなく、もう少し繊細な諸条件のバランスによって成立する。彼の作品は、最低限の要素を用いて、絵画を絵画たらしめる均衡を探っているのだ。それは言わば星新一のSFであり、絵画のショートショートなのである。それ以下ではないが以上でもない。
モダンな本質主義、レイヤー主義に逆らっているのは、フランツ・ヴェストであるが、出展作品は残念ながら本来の代表作「Paßstücke(パスシュテュッケ=合わせもの、アダプター)」の晩年の堕落形であって、本展の要とはなりえない。パスシュテュッケは、アートの「外部」を目指した反芸術運動(ウィーン・アクショニズム、フルクサスなど)を批判して登場したヴェストが、70年代につくり出したシリーズで、観客には、それを自由に使用あるいは着用することが求められている。「外部」を否定形で、ある極限や彼方に設定するのではなく、「パスシュテュッケ」として、すなわち平凡な日常のなかでの自由で創造的な関係性として規定するその方法論は、ポストモダンと呼ぶにふさわしかった。
結局、13名の作家のうち見応えがあったのは、スターリング・ルビーの立体と、ウーゴ・ロンディノーネの作品《2014年6月22日》であった。両者とも、過去の作家(ジャッドと河原温)による「絵画の死」後の絵画の延命と純粋主義に対する、不遜にしてユーモラスな批判である。ルビーの主体は、抽出された絵画の純粋骨格(箱)を、分割したり引っ掻いて汚すことによって、ただの物質的存在へと世俗化するものである。区切られた平面という枠に入れればなんでも絵画になるという、その枠を河原は「1日」という時間枠に重ねることで、あらゆるものを受容できる絵画を描いたのであった。対照的に、継ぎはぎされたキャンバス(?)に、角に塗り残しを見せつつ、臭うほど分厚い絵具で描かれたロンディノーネの巨大なレンガの壁は、馬鹿らしいほど巨大化・物質化したレイヤーであり、それは行き止まりの壁ではあるが、しかし後ろに回れる舞台の書き割りであり、しかもタイトルも制作開始日にすぎない。
*1──クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」『グリーンバーグ批評選集』(藤枝晃雄編訳、剄草書房、2005)、70頁
*2──Clement Greenberg “After Abstract Expressionism” The Collected Essays and Criticism Vol.4 (The University of Chicago Press, 1993), pp.131-132.
(『美術手帖』2019年8月号「REVIEWS」より)