月評第124回 小さな王子と狐
『偉大な調教師』と堂島リバービエンナーレ
2019年の日本人は、自分が調教師なのか野獣なのか改めて知りたくなっているようだ。3つの催し物には共通して「飼い馴らす=tame」という主題が表れていた。そこでは当然、飼い馴らす側と飼い馴らされる側が前提とされる。ただし、そこから自動的に前者が文化・文明で後者が野生の自然、すなわちある文化システムの内部と外部という二項対立になるわけではない。「文化」も「野生」も相対的な、つまり各々の文化に依存した概念である。そのとき「tame」とは、ある文化を別の文化へと「飼い馴らす」意味になるだろう。近代史上これは「白人の使命」と呼ばれた。近代人は、程度の差はあれ不可逆的に「欧米」「白人」「男性」へと「tame」されたのである。
そういう相対的野生ではなく、野生と文化の二元論自体の外部、つまりどのような文化システムにも所属しない絶対的野生を措定することもできる。これは、どうしても植民地主義から逃れられない文化相対主義を超えるために、最後のモダニストがよく抱く夢であり希望である。このとき「tame」は絶対的野生をシステム内部に取り込むことであると同時に、そのような行為の不可能性を含意している。人間の文化は、絶対的野生を「tame」して成立するが、絶対的野生は定義上絶対に飼い馴らされたりしないので、文化とはつねに、津波の押し寄せる海岸線のように、「tame」の可能性と不可能性のせめぎ合いである、と。
「野生」と「tame」の関係は三者三様である。ディミトリス・パパイオアヌーの『THE GREAT TAMER (偉大な調教師)』は、最後のモダニストのわかりやすい夢であった。彼にとって「絶対的野生」とは、人間もまたその肉体を通じてつながれている自然であり、宇宙的・神話的な時間である。舞台は上下段仕立てで、見えない地下は野生の領分とされ、それを覆い隠す薄いベニヤ板を張り重ねた舞台上では、人間の文化古典絵画(ゴヤ、レンブラント、ヴァニタス、十字架降架、ピエタ、パリスの審判、世界の起源……)から宇宙飛行士までが書き割りのように次々と演じられるが、時折ベニヤ板を突き破って噴出する野生に中断される。
「偉大な調教師」とはまずは反語的に諦めずに自然に挑むのが「偉い」人間のことだろう。しかし自然や時間は決して「調教」されない。劇は、偉大な調教師(=悠久の時間、あるいは死)の作用によって自然へ戻っていた人間(白骨死体)が発掘されて、偉大な調教師(=人間)の文化が断片的に蘇るという枠組みで進行するが、やがて、肉体は頭の統御を逃れて動き出し(身体の一部だけをむき出した複数の黒子が連なりながら踊ることで、バラバラ死体の各部が動いているように見える、優れて気持ち悪い演出)、文化の断片も再び死へ、自然へと回収されていく。
「堂島リバービエンナーレ2019」は、世紀の記憶のアーカイヴを前提にして、「飼い馴らされて」いないアートとはなんなのかを問いかけていくものである」(主催者の言葉)。ゴダールの最新作『イメージの本』にインスパイアされたというこの展覧会では、まず野蛮と文明の関係が再認識される。「アウシュヴィッツの後で、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)と。詩を書き音楽を愛するその同じ文明がアウシュヴィッツを生み出した。しかもそれは暗部・恥部としてではなく、その文明のひとつの本質としてであった。ヨーロッパ近代文明を純粋培養すると、その純化の果てには絶滅収容所が現れるのだ。その再認識のうえで、「アウシュヴィッツ」を「tame」する、言い換えれば「表象する」ことは可能かと問われる。つまりアウシュヴィッツは、ヨーロッパ文化の本質としての野蛮であるとともに、文化に回収されえない絶対的野生としても措定されている。
「飼い馴らされて」いないアートとは、アウシュヴィッツを「tame」することなく、表象するアートなのだ。そのときゴダール再認識は、サイードの発言を援用する:「表象という行為が持つ暴力と、表象そのものの内的な静謐さのあいだには、著しい対照がある」。(*1)表象にその「静謐さ」を取り戻させたとき、アウシュヴィッツは表象されるだろう、と。これまた最後のモダニストの執拗な希望と言うべきだろう。永遠に中立的、超越的な「justeuneimage」これこそ究極の「調教師」への信仰心である。展覧会自体としては、リヒターの「アトラス」の簡易普及版(ただし最新版、とくにビルケナウのパネル)とゴダールのあいだで、ほかの作家はすべて霞んでいた。
あいちトリエンナーレ
「情の時代TamingY/Our」をテーマに掲げた「あいちトリエンナーレ」は、一見、グローバル時代の文化相対主義に見える。「情」報に流され、炎上する感「情」のままにポスト・トゥルースで開き直るのではなく、「情」を飼い馴らして他者と共生していこう、と。それだけなら善意の国際交流ではあれ、アートどころかジャーナリズムですらないだろう。昨今のアートイベントでは「社会的関与」が前面化し、世界各地の「悲劇」「差別」「移民」「環境」「暴力」......等々、既視感満載の社会問題が主題となっているわけだが、その大部分は主題の選択だけに自足して、ありがちなインスタレーションに頼るもので、そもそもそれらがどう表象されており自分はどう表象するのかという政治的・批評的な意識が欠けている。アートこそは偉大な調教師であって、地球上の「どのような悲惨であっても、[..]享受の対象にしてしまえる」(ベンヤミン)。「何よりも、表象の主要な部分とは消費なのだ」(サイード)。だから、あの「著しい対照」、表象自体と表象プロセスのあいだの齟齬や誤訳を主題化した作家たち(ウーゴ・ロンディノーネ、キャンディス・ブレイツ、ミリアム・カーン、伊藤ガビン、澤田華、高嶺格、小田原のどか)が、結局は印象に残った。
とはいえ、そんなレベルの話をする以前に、あいちトリエンナーレは、特定の主題(天皇制、米軍、戦争責任)を選ぶだけで表現の自由を奪われる日本という国をも主題としていた(「表現の不自由展・その後」、残念ながら3日で中止)。振り返れば千円札事件やサド裁判から本展に至るまで、この国は結局アートを認めない。国際的にはどんな主題もアートというフレームに入れれば基本的には「調教済」なのだが、日本では特定の主題が「調教済」モードで表れると、ヒステリー反応が起こる。それはアートというフレームが存在しないことの表れであり、そしてその主題に対するヒステリックな否認なのだろう。
しかし、じつはこのトリエンナーレが面白くなるのは、国際交流を捨てて、全地球を覆い尽くす情報ネットワークこそが、世界の各々の文化にとっての絶対的野生なのだととらえ直したときである。スマートフォン必携の現代人はことごとく「情」を介してこのネットワークに浸食されており、GAFAにせよ軍にせよ、この絶対的野生の管理と支配(=調教)に躍起になっているが、そんな努力は、小さい頃から育ててきた野獣にやがてかみ殺される調教師の運命をたどるだろう。人類史上初めて、文化は野生にその地位を奪れようとしているのだから。「情」の時代とは、野生時代であり、その受苦(Passion)を飼い馴らす者は、もはや人間ではあるまい。
*1──サイードはそんなことは言っていない。ゴダールの「希望」に従って圧縮された引用の出典は、2001年のインタビューだと思われるが、原文は「内的な静謐 さ」ではなくて「静謐な外面(the calm exterior of the representation itself)」。表象自体のとりすました外面と、表象作用の暴力性のあいだの対照。
(『美術手帖』2019年10月号「REVIEWS」より)