月評第120回
禹歩舜趨 (うほしゅんすう)
ビエンナーレの評価軸
昨今のほとんどの現代美術イベントは、ある正の立場と負の立場を秤にかけてそれらに対してメタレベルに立つという黄金の中庸、いわば100点満点として70点程度に収まるのが常道である。私は、アートというものはいわば最小限のこちら側と最大限の向こう側に広がるもの、0点未満か100点超えだと思っているので、この現状はきわめて退屈である。
無論、企画自体と個々の作家の表現は別物であり、企画が70点でも、優れた表現がひとつでも見られれば──ビエンナーレやトリエンナーレといった大規模企画展で出展作家が皆素晴らしいことなどない──それで良いのであって、一昨年のドクメンタはその意味でかなり成功していた。現代の美術展は重要な観光イベントでもあるというのに、その目論見を見事に裏切って経済的に大損益の0点未満、企画としては「ドクメンタ」にアテネという分身を添えるという大胆な発想で100点超え、アテネでは一種の「場外乱闘」もあって、展示作品のヒット率もかなり高かった(2017年8月号本欄参照)。
そうした企画の「中庸」は、それぞれの時代の流行を(「流行」を自覚しつつ)反映するものであるが、ここ10年ほどのそれは周知の通り、社会的関与(sociallyengaged/relational)である。この流行がまた、本来の意図から大きく逸れて、70点の退屈に拍車をかけている。社会的問題を主題としたうえで、0点未満か100点超えで対応できる企画者や作家は少ないし、そういう表現を受け入れる主催者やスポンサーはまずいないからである(「他者を傷つける表現は受け入れません!」)。
例を挙げれば10年前、広島の空に「ピカッ」という文字を描いて展覧会を棒に振ったChim↑Pomの表現は、まさに歴史的・社会的に関与した0点未満の作品であったが、原爆に見立てた黒色花火を上げた
こうして、ドクメンタを含め、どこのイベントの企画書でも、似たようなポストコロニアルな美辞麗句が並ぶこととなる。他方で作家たちはどこぞの「レジデンス」に応募し、その土地の諸問題や歴史を「リサーチ」し、「コミュニティ」の人々と「ワークショップ」などを通じて「関係性を創造」しつつ「社会的関与」の作品をつくり上げる、と。ただし本当にアクチュアルな主題だと主催者やスポンサーが引いてしまうので、非英語圏(ココ重要)のローカルな地方色(中南米のジャングルとか)を湛えていると良いですね。アートは結論を出すものではありませんし、高度に複雑化した現在の世界では単一の正解はありえないのですから、「こういう問題があるのですよ」「〜は複雑に絡み合った問題です」と、印象的に示唆すれば良いでしょう。
現地の人への静かな単独インタビューや、遅いカメラワークを使う人が多いですね。消費者たち(観客のことですね)にモノを売るときは、消費を意識させてはいけないからです。さらに、いわゆる専門家向けに、美術史や文化史への言及を組み込めれば、たんなるドキュメンタリーから頭ひとつ上に出られるでしょう……。
レシピは簡単で誰でもできるから、野心だけある作家たちがアップする社会的関与の作品とは、世界各地へ「レジデンス」に出かける観光客のセルフィー写真のようなものだ。100年たって、小便器のかわりに「地域の悲惨」が登場している、と。しかしそこにはデュシャンのレディメイドが持っていたユーモラスな悪意(敵意や憎悪ではない)とディスコミュニケーションがない。そしてどんな悲惨も「他人事」として「考えないようにする」(post-truthとはこのことである)という、鉄壁のディスコミュニケーションから始めない「社会的関与」などありえない。
真の社会的関与とは
さて、クワウテモク・メディナと彼のチーム(マリア・ベレン・サエズ・デ・イバッラ、神谷幸江、
だが中国語のタイトル「禹歩」を見て、私は目を疑ってしまった。「禹歩(舜趨)」といえば、見かけだけで内実が伴わない行為のことである。「禹歩」だけならこれは拡大解釈だろうが、調べてみるとProregressのほうも、詩集『ViVa』のxx1に登場する言葉で、なんと酔っ払いの千鳥足の表現である。つまり「Proregress禹歩」は、進歩的でポストコロニアルな企画や社会的関与のアートが、まさにそれを通じて社会的関与を無害無毒化する制度へと退行しているということ、さらにそのような企画や作品が禹歩にすぎない、すなわち見かけだけでなんら本当の社会的関与のアートではないことを、一種自虐的に──とは言い過ぎなら自己言及的に──証しているのではあるまいか。我々は夜明け前の酔っ払いにすぎない、と。
というわけで、上海まで出かけていったのだが、ほとんどの展示作品はタイトルの含意通り(?)、計算高い(
最初の2つは、ここまで書いてきたことに関わる。ジェヴデット・エレクの《定規と韻律の研究》(2007〜11)は、様々な定規が、図形楽譜のように壁面に展示されているだけの素っ気ない展示だが、冒頭の「秤にかける」の秤、つまり評価の基準自体の政治性を主題としている。ただし基準の相対性を指摘するだけでは、たんにメタレベルに立つだけで終わりかねない。ヒト・シュタイエルを思わせる旺盛な悪意を見せて目立っていたのが、セス・プライスの《再分配》(2007/2018)である。現代のヴィデオ・アートのレシピ(社会的関与×文化史・美術史×映像効果)そのものを、ユーモラスにそしてシニカルに作品に仕立てていた。
彼らと比べると、小泉明郎の《嵐の直後の新風/七つの大罪》(2018)は、テロと右翼ポピュリズムの時代に、パリの郊外に住む移民出自のティーンズたちに取材した、オーソドックスな社会的関与の作品であり、レシピ通りと言えばそうなのだが、同じレシピでもつくり手が良ければ優れた作品になるという好例であった。それは、取材対象を自分の作品の要素として完全に料理すると同時に、彼らを決して特定の社会的現実の代表にしない(インタビューであってモノローグにしない)ということである。
近年の目覚ましい都市機能の発展のおかげで、上海はようやく快適に滞在できる街となった。その反面、足を棒にして回った、余徳耀美術館、龍美術館、上海当代芸術館、上海ヒマラヤ美術館、上海民生現代美術館……どれももはや盛りを過ぎたかのような空虚感、廃墟感が漂っていた。復星芸術中心のシンディ・シャーマン回顧展も、ロックバンド美術館のフランシス・アリス展も、小規模ながらそれぞれ見応えがあったが、結局、上海の現代美術シーンではこのビエンナーレがいちばん面白かった。