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2019.12.5

公共を構成する人とは誰か? 中尾英恵評「アートセンターをひらく」

2020年に開館30周年を迎える水戸芸術館現代美術センターでは、移り変わる社会のなかでアートセンターに求められる役割を探る企画「アートセンターをひらく」を2期に分けて開催。第Ⅰ期では、ギャラリーをアーティストや来場者の「創作と対話」のために活用し、第Ⅱ期では、展覧会を軸にギャラリーをひらいた。社会的な場としてのアートセンターの役割を、実践を通して探る本展の試みを、小山市立車屋美術館学芸員の中尾英恵がレビューする。

文=中尾英恵

「アートセンターをひらく 第Ⅱ期」より、ハロルド・オフェイ《村のよそ者》(2019)の展示風景 撮影=根本譲 写真提供=水戸芸術館現代美術センター
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アートセンターは誰にひらかれるのか?

 子供が生まれ、児童センターに行くようになり、すごく久しぶりに、中学校以来だろうか、著しく異なる価値観を持つ他者の存在を痛烈に思い出した。同時に、無意識的に排除していたことにも気づかされた。異なる価値観を持つ他者との「対話」は、心身の体力を使う、ときには面倒なことでさえあるが、無意識的な排除の結果が、対立する現在の社会の状況につながるように思う。ところで、異なる価値観や文脈を持つ人と「対話」をする場所は、この社会にあるだろうか。

 展示室に足を踏み入れると、そこには、人が主体となる場がつくられていた。手芸素材で創作を楽しむ人、コーヒーを飲みながら会話を楽しむ人、玩具で遊ぶ幼児、お絵描きをする子供。賑やかにガヤガヤしている空間の奥のほうでは、喧騒をよそにプロジェクターを使ってアーティストトークが静々と実施されていた。ここでは、異なる目的をもった人たちが、緩やかに空間を共有していた。

「アートセンターをひらく 第Ⅰ期」でのカフェの様子
撮影=松本美枝子 写真提供=水戸芸術館現代美術センター

 これは、見たことのない展示室の風景であったが、2016年に同館で行われた「田中功起 共にいることの可能性、その試み」からの問題意識の連続性と、発展的でダイナミックな実践として考えられる空間であった。「展覧会を含めた既存の美術制度を批判的に検証する」(*1)という動機を、キュレーターの竹久侑とアーティストの田中功起が共有し共犯的に検証された展覧会から、展覧会を含めた既存のアートセンターを批判的に検証するプログラムへ、これまでの水戸芸術館に蓄積されてきたヒト、モノ、コトすべてを導入し展開することで、水戸芸術館現代美術ギャラリーというアートセンターを全照射的に検証する、壮大な試みであった。完成された作品を展示する展覧会を軸に、それに付随するかたちで行われるトークイベントや創作活動としてのワークショップといった枠組みを解体し、「対話」を中心に据えた新たな枠組みがつくられていた。

 ここで記載しておきたいのは、東日本大震災で被災した水戸芸術館が、震災による休館から「CAFE in Mito 2011─かかわりの色いろ」で再開し、2012年「3.11とアーティスト:進行形の記録」、15年「カフェ・イン・水戸R 」、「3.11以後の建築」(金沢21世紀美術館からの巡回)と、震災以後の社会について、かたちを変え検証し続けていることである。震災時に水戸芸術館が避難場所として使用され文字通りに全市民へと開かれた経験から、本プログラムは、公共施設としてのアートセンターの在り方への問いを発端としているそうだ。

 期間限定で開かれたオープンスペースは、一時のユートピアのようだが、この風景を経験した者が、アートセンターをどのようにして「多様な人々がアートを介してつながるクリエイティブな社会的インフラ」としていくかという課題について、「自分たち」のアートセンターとして主体的に考える仕掛けである。展示室をスタジオとする滞在制作は、これまで可視化されてこなかった制作プロセスを照射し、その空間を共有することで、ここが文化をつくる場所であることを認識する行為につながる。

「アートセンターをひらく 第Ⅰ期」より座談会「いま、必要な場所」の様子
撮影=松本美枝子 写真提供=水戸芸術館現代美術センター

 「展示と対話のプログラム アートセンターをひらく 第Ⅱ期」では、「創作と対話のプログラム アートセンターをひらく 第Ⅰ期」の成果としての作品展示が行われた。7つの作品から、何かしらの「テーマ」や「ストーリー」を読み取ろうとすると、袋小路に陥る。その思考方法自体が、慣習に陥っている。

 これは、お決まりのテーマ展ではない。高らかに宣言はされていないが、アーティストの選択には、丁寧なジェンダー、人種的配慮がなされている。多様性が共存している社会の縮図のようでもある。そして、作品のメディアにおいては、インスタレーション、映像、染織、パフォーマンス、絵画、身体表現と異なる方法が選ばれている。鑑賞者における従来の美術史優位のヒエラルキーを崩し、ダンスをしている人、手芸をしている人、様々な知識や経験を持つ人が、それらの知識や経験を駆使して鑑賞することで、美術史もひとつの知識として、フラットな立場での「対話」がつくられるようになっている。

 いっぽうで、毛利悠子の構造体が用いられた新作では、パイプに隠された機構が、電気や水といったインフラの決定における不可視な構造を、連動する動きは、距離的であったり一見無関係に思えることでも無関係ではないことに気づかされる。世界中の日常生活に欠かす事のできないスマートフォンに使用されている鉱物によってコンゴで性暴力が起きているように。無関心でいることは論外である。

「アートセンターをひらく 第Ⅱ期」より毛利悠子の展示風景 
手前は《無題(パイプ)》(2019)、奥は《遊具を使ったプラクティス》(2019)
撮影=根本譲 写真提供=水戸芸術館現代美術センター

 「よそ者」「変わり者」といった他者の声を題材にしたハロルド・オフェイの映像インスタレーションは、個人が自分らしく生きること、その一人ひとりが共存できる場所とはと言う対話へとつながっていく。戦争花嫁のあいだで交わされた手紙と朗読を内在させた呉夏枝の織物による部屋は、グローバルな問題と事物がそれぞれの個人と結びつく接点を浮き上がらせる。個々の社会構造や歴史に対して脱構築的で再構築的な作品を読み解くことと「アートセンターをひらく」という問いとを往復することは、作品を介してアートセンターのあり方、社会のあり方を対話的に思考するものであった。

「アートセンターをひらく 第Ⅱ期」より呉夏枝《彼女の部屋にとどけられたもの》(2019)の
展示風景  撮影=根本譲 写真提供=水戸芸術館現代美術センター

 滞在制作、展示、地域や建築のリサーチ、ワークショップスペース、カフェ、上映会、座談会、高校生ボランティア、これら一つひとつは、水戸芸術館にすでにあったものであろう。これらをダイナミックに編集し直し、創作や作品が誘発する、顔を見合わせた「対話」を通じて、異なるものが互いの違いを受け入れ、理解を深める機会を創出した。今回のプログラムは、これまでの美術館やアートセンターの慣習と方法論では、立ち行かなくなっていることを誰しもが感じながらも、実際の行動では出遅れている現状に、投じられた一石である。

 この一石の重みは、非常に大きいと思うが、その波及の大きさは、美術に従事する人全員にかかっている。水戸芸術館と設計者をともにする秋吉台国際芸術村が、開館21年目にして来年度以降の閉鎖が検討されている、社会インフラとしての文化施設の存続が危ぶまれているのが現状である。

 しかしながら、今回のプログラムは、社会のなかでのこれからのアートセンターの役割を考える覚悟を感じるラディカルな試みであったが、それでもある種の同質的な人たちに向けられた「ひらく」であったように感じられた。大洗の海の帰りに感じる、海とアートセンターに来る人の隔たりや、外の芝生で賑わうハロウィンの仮装をした子供たちを見ると、現代美術やアートセンターがつくってしまっているゾーニングのようなものも感じる。アートセンターに近寄らない人たちに「ひらく」ことは、アートセンターの公共性の問いにつながっているだろう。自省を込めて考えていく必要を感じる。

*1──竹久侑「田中功起展を企画した理由、その意味」
www.arttowermito.or.jp/topics/article_17860.html