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2019.11.19

記憶や時差をテーマとする、グレゴール・シュナイダーの作品が呼び覚ますものとは? 大岩雄典評「美術館の終焉─12の道行き」

神戸を舞台としたアートプロジェクト「TRANS-」の参加作家グレゴール・シュナイダーが、市内12ヶ所にて展開した「美術館の終焉─12の道行き」。いまは使われていない建物や、商店街といった日常空間を、鑑賞者は手探りで巡るよう促される。このインスタレーションを「不安を抱えつつ」体験したというアーティストの大岩雄典が、本作にやどる翳りを手がかりに作品を分析する。

大岩雄典=文

グレゴール・シュナイダー「美術館の終焉―12の道行き」より、第3留:旧兵庫県立健康生活科学研究所での《消えた現実》(2019)展示風景
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較正、時差を約束するための

反復とは、なにが存在しているのかを確認する身ぶりなのだ。(*1)
みんなが心の底から「これは本当にヤバい」とわかるためには、二回来ないと駄目なのかも知れませんね。(*2)

 兵庫県神戸市のアートプロジェクト「TRANS-」の一翼を担う、グレゴール・シュナイダーによる「美術館の終焉─12の道行き」は、題のとおり市内12ヶ所の「留(station)」を、主に神戸市営地下鉄海岸線に沿って巡る一連のインスタレーションだ。

 はなから妙だった。駅前さえ広告は目立たず、案内標示も質素。地下街「デュオこうべ」に設置された作品──住民を3Dスキャンするための小屋と、パフォーマンス中継のためのスクリーン──は味気なく、併催の公共イベントの影に追いやられている。

 不安を抱えつつ、廃用になった衛生研究所を会場とした第3留《消えた現実》へ着く。内部の撮影は謝絶。まず暗い地下に降り、そこからエレベーターで5階に上がると、壁も扉も白一色にされた廊下に通される。その先、おそらく空調か衛生のための二重扉を抜けると、洗浄や実験に使われていたであろう部屋が開ける。

グレゴール・シュナイダー「美術館の終焉―12の道行き」より
第3留:旧兵庫県立健康生活科学研究所での《消えた現実》(2019)展示風景

 知覚の「較正(キャリブレーション)」。「行為のニュートラル・ギアに関心がある」とも作家は言う(*3)。白一色の廊下で眼を凝らしても、塗料の質感に均された表面は、その形状より多くのことを伝えない。認知の抑制を抜けて着く室内で、わたしは、その細部──ノブの手触り、水回りのつや、机の配置、色、設備のパイプ跡、窓の封鎖、くらがり、空気の閉塞──にいちいち気を遣る倒錯を起こす。ひとつ上がった階の、地震がきたかのように乱れた事務室。さらに上の、実験用の動物が飼育されていたであろう階。洗い場、カレンダー、凹凸に溜まった鳥の排泄物。

 しかし、過去の営みの痕跡のためにそうして較正された眼は、ふいに別の対象へ向けられる。窓の外景を隠されていた屋内から、屋上に出されると、神戸西側の街並みにわたしは囲まれる。

グレゴール・シュナイダー「美術館の終焉―12の道行き」より
第3留:旧兵庫県立健康生活科学研究所での《消えた現実》(2019)展示風景
 存在するものないし潜在的に存在するものは、反復される──最初から再構築される。(*4)

 「レディメイド」というメディウムは、「すでに(ready)」という副詞が示すように、時間に関する技術に基づく。それが成型された時点と、見られるべき対象となる時点との時差が、観賞の時間に陥入するのだ。

 研究所の閉域でかつて営まれていた「すでに」過ぎ去った物事に、「いまさら」過敏になるよう較正された眼が、街へ向けられる。年季の入った建物群。地下鉄駅のコンコース、蛍光灯の暗がりに、誰も目もくれない壁画がある。パチンコ店直通の出口。地下鉄で次の留、西へ向かう。東側のハーバーランドや元町など、観光向けの地域を通ることはなく、展示は日をまたぐような分量でもないため、夕食で繁華街に出ることもない。一連の観賞中、わたしはずっとこの「翳り」に閉じ込められる。

グレゴール・シュナイダー「美術館の終焉―12の道行き」より
第8留:神戸市立兵庫荘での《住居の暗部》(2019)の展示風景

 かつて低所得勤労者が居住していた「兵庫荘」の、塗料で真っ黒にされた屋内をペンライトで見る第8留《住居の暗部》も、第3留を反復するように、変哲も何もない屋上に出される第11留《空っぽにされた》も、眼の「較正」にかかずらう。神戸駅前からもさらに離れた「殺風景」な街並を「過剰」に見るよう、わたしの眼はなお倒錯のさなかにある。

グレゴール・シュナイダー「美術館の終焉―12の道行き」より
第11留:ノア―ビルでの《空っぽにされた》(2019)の展示風景

 一連の、風景を「 ぎもどす」ような経験の果てに着く、第12留《死にゆくこと、生きながらえること》は、細い路地に30ほどの露店が展開し、ちょうど廻り終わる夕頃から活気づく丸五市場を会場とする。1世紀ほどの沿革を持ち、偶然休場日だったために阪神淡路大震災を免れた市場で、料理を手に呼び込む店員や、立ち飲み客のかたわらに、3Dスキャンされた老人の姿が、スマートフォンのARアプリ越しに現れる。

グレゴール・シュナイダー「美術館の終焉―12の道行き」より
第12留:丸五市場 《死にゆくこと、生きながらえること(2019)》の展示風景
Photo by Gregor Schneider ©️ Gregor Schneider / VG Bild-Kunst Bonn 

 食は、生死のコントラストを扱うシュナイダーの重要なモチーフだ。だが、食事する人々に重ねられる、張り子人形のようにも見えるフォトグラメトリのテクスチャの身体を、霊的な存在や、ましてや死者の表象とみなして、かつて神戸を襲った「震災」の物語へと説話化することに誘惑されてはなるまい。おし黙った形象に軽々しく声を与えてはなるまい。「すでに」起こったことの痕跡、街のたたえる翳りに相対したとき、それが成型された時点と、文脈──物語を帯びる時点との、還元しがたい時差に眼をとどめ置くことこそ、レディメイドの技術が構成するべき約束(convention)だろう。

 観光のスペクタクルを避け、あえて街に潜伏する触媒のように──「補助的(additional)」「余分(superfluous)」(*5)に──あつらえられたインスタレーション。空間に、除去や減算、反復の操作を施すことで「較正」される眼は、街の生活の細部、動物や労働者、老人という別の生のフィクションが、物語に昇華=蒸発させる手前にとどまりながら、細部が細部のままで、「主題」的にうごめくために準備されている。

 

校正稿

反復とは、なにが存在しているのかを確認する身ぶりなのだ。(*1)
 わたしはすでに、暗闇の中をうねうねと蛇行する河のこちら側へと渡ってしまって、生きた人間たちの世界が広がる水面にもう一度浮かび上がってきていた。それゆえ、フランシス・ジャム、鹿、鹿、と再び繰り返してみても、この言葉の連続からは、明快な意味や論理をくみ取ることができないのだった。(*2)

 兵庫県神戸市のアートプロジェクト「TRANS-」の一翼を担う、グレゴール・シュナイダーによる「美術館の終焉─12の道行き」は、題のとおり市内12ヶ所の「留(station)」を、主に神戸市営地下鉄海岸線に沿って廻る一連のインスタレーションだった。

 駅前に広告は目立たず、案内標示も簡素。地下街「デュオこうべ」の2作品──住民を3Dスキャンするための小屋と、パフォーマンス中継のためのスクリーン──も、併催の公共イベントの隅に素気なく設置されていた。

 北上して、廃用の衛生研究所を会場とした第3留《消えた現実》へ着いた。内部の撮影は謝絶。まず暗い地下に降り、エレベーターで5階に上がると、壁も扉も白一色に塗られた廊下に通された。その先、鈍重に二重になった扉を抜けると、水道や空調がしつらえられた部屋があった。

 知覚の「較正(キャリブレーション)」。「行為のニュートラル・ギア」とも作家は言う(*3)。白一色の廊下で眼を凝らしても、塗料の質感に均された表面と、その形状しか見えない。そうした認知の抑制を経て、彼は室内の細部──ノブの手触り、水回りのつや、設備のパイプ跡、窓の封鎖、壁の色、くらがり、空気の閉塞──にいちいち気を遣る倒錯を起こしていた。ひとつ上の階の、部屋中が散乱した事務室。さらに上の、動物が飼育されていたらしい階。洗い場、カレンダー、凹凸に溜まった鳥の排泄物。

 しかし、過去の営みの痕跡を気にするよう較正された眼は、ふいに別の対象へ向けられた。窓を遮られていた屋内から、屋上に出されて、市街西側の街並みに彼は囲まれた。

存在するものないし潜在的に存在するものは、反復される──最初から再構築される。(*4)

 「レディメイド」というメディウムは、「すでに(ready)」という副詞が示すように、時間に関する技術に基づく。それが成型された時点と、見られるべき対象となる時点との時差が、観賞の時間に陥入するのだ。

 研究所の閉域でかつて営まれていた「すでに」過ぎ去った物事を、「いま」過敏になるよう較正された眼が、街へ注がれる。年季の入った建物群。地下鉄駅の薄暗いコンコースの、鉄道の沿革を示した壁画。パチンコ店直通の出口。地下鉄で次の留へ。東側のハーバーランドや元町など、観光向けの地域を通ることはなく、展示は日をまたぐような分量でもないため、夕食で繁華街に出ることもない。一連の観賞中、彼はずっと街の、居住や産業を担う西側に閉じ込められたのだ。

 かつて低所得勤労者が居住していた「兵庫荘」の、塗料で真っ黒にされた屋内をペンライトで見る第8留《住居の暗部》も、第3留を反復するように、変哲も何もない屋上に出される第11留《空っぽにされた》も、眼の較正を促す。神戸駅からはさらに離れた駒ヶ林駅周辺の「殺風景」な街並もなお「過剰」に見える倒錯のさなかに、彼の眼はあった。

 一連の、風景を「殺ぎもどす」ような経験の果てに着く、第12留《死にゆくこと、生きながらえること》は、細い路地に30ほどの露店が展開し、廻り終わる夕頃にちょうど営業の始まる「丸五市場」を会場とする。料理を手に呼び込む店員や、立ち飲み客のかたわらに、同名の題を持つ第1留で3Dスキャンされた老人の姿が、スマートフォンのARアプリ越しに見られた。

 食は、生死のコントラストを扱うシュナイダーの重要なモチーフだ。だが、人々が食事する光景を横切るように表示される、風景に溶けあわない粗いフォトグラメトリの身体を、霊的な存在や、ましてや死者の表象とみなして、かつて神戸を襲った「震災」の物語へと説話化することに煽惑されてはなるまい。おし黙った形象に軽々しく声を与えてはなるまい。「すでに」起こったらしいことの痕跡、街のありように相対したとき、それが成型された時点と、文脈──物語を帯びる時点との、還元しがたい遅延に眼をおしてとどめ置くことこそ、レディメイドの技術が構成するべき約束事(convention)だろう。

 スペクタクルをもたらすことを避けて、あえて街に潜伏する触媒のように──「余分(superfluous)」(*5)に──あつらえられたインスタレーション。除去や減算、反復の操作を空間に施すことで、眼は、街の生活の細部、もしかすると動物や労働者、老人かも、彼かもしれない別の生のフィクションが、物語に昇華=蒸発せぬよう固辞しながら、細部が細部のまま、「主題」としてうごめくために、炯眼へと「較正」される。

 

*1──“Duplication is a gesture that confirms what exists.” Gregor Schneider, ‘Total Isolation and Complete Self-Deception: A reiteration.’ in Skulptur Projekte Münster 2017, 2017, p.273(同書からの訳は筆者による)。
*2──初稿:阿部和重+川上未映子+斎藤環+辛島デイヴィッド+市川真人「震災と『フィクション(言葉・日常・物語……)』との『距離』」『早稲田文学 記録増刊 震災とフィクションの”距離”』(筑摩書房、2012)p.215より、川上の発言。校正稿:マルセル・プルースト『失われた時を求めて』。ジェラール・ジュネット『物語のディスクール:方法論の試み』(花輪光・和泉涼一訳、書肆風の薔薇、1972/1985)p.211より孫引き。ただし「私」を「わたし」に改めた。
*3──Schneider、前掲書。
*4──Schneider、前掲書。
*5──Schneider、前掲書。以下、全文を引く。「存在するものないし潜在的に存在するものは、反復される(reiterated)──最初から構築される。新たなものは何もない。わたしは『行為のニュートラル・ギアに関心がある』と言ったが、そうした意味で、作品それ自体は補助的(additional)、おまけ(extra)、余分(superfluous)なのだ」。