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ある次元に「超暴力」の名を与えるとき。 長谷川新評 超暴力展

愛知県名古屋市の山下ビルで開催された、中路景暁、髙橋莉子、菊池和晃の3名による超暴力展。「超暴力」という挑発的な造語を冠していながら、本展で展示された3名のパフォーマンスは、それぞれ直接的には暴力と結びつく内容ではなかった。ではいったい何が「超暴力」だったのだろうか? 本展を、インディペンデント・キュレーターの長谷川新が論じる。

文=長谷川新

展示風景より、手前が髙橋莉子《自身で巻く》(2019)、奥が菊池和晃《muscle》(2019) 撮影=鈴木悠生

名を与える(donner un nom)

 本展は2019年4月6日〜21日の金土日が「会期」であるが、4月14日以降は参加作家のパフォーマンス記録のみが展示された。パフォーマンスが行われた日程は、中路景暁が4月6日、7日、髙橋莉子が4月12日、菊池和晃が4月13日である。これだけではピンとこないまま読み飛ばしてしまいそうになるが、次のように書き換えてみるとその構造が明瞭になる。

合計:8日間
┗パフォーマンス:6日、7日、12日、13日
┗記録展示:14日、19日、20日、21日

 見方によっては展覧会は4日間しかない、とも言いうる本展であるが、キュレーターは、臆すことなく、その仮設テントのようなフレームのなかで最大限の思考のボリュームを与えようとしている。超暴力展という挑発的かつ魅力的なタイトルはその一端であろう。だがいったい何が「超暴力」なのだろうか。

展示風景より、髙橋莉子《自身で巻く》(2019) 撮影=鈴木悠生
展示風景より、中路影暁《ある日常》(2019) 撮影=鈴木悠生

 本展の作家たちによるパフォーマンスには、(例えば人が殺されたり怪獣が街をぶっ壊したりといった)直接的に「暴力」を想起させるものは皆無と言って良い。3人の作家に共通するのは、それぞれがある一定の行為のミニマルな反復を自らに課し、その反復における差異化を身体ごと受けとめる姿勢である。鑑賞者たちは、彼らのパフォーマンスを見るにせよ、パフォーマンス記録を見るにせよ、それらが「超暴力」という語とどう結びつくのか要領を得ない。ここでキュレーターのステートメントに戻れば(戻らずとも展覧会内のフレーミングだけで十分到達可能ではあるが)、「暴力というものは明確なかたちとして現れて、残り続けることはない」とある。

 キュレーターの「本展は『暴力の』一つの姿を暴いて、この世に留めさせる展覧会である」という表明を真剣に受け取れば、「超暴力」の意味は概ねふたつに解釈が可能である。ひとつは、暴力の忘却に抗する姿勢。もうひとつは、その姿を暴かれ、この世(展覧会)にかたちを留めている暴力の現れ。実際の「超暴力」の含意は図りかねるが、少なくとも指摘できることは、本展ではこうした「超暴力」をめぐる実践が、「パフォーマンスはどのように展示されうるのか」という問いへと再定式化されている点である。

 またこの問いの底流には、「キュレーターとアーティストの間の関係性はどのようにあるべきか」という倫理的かつ再帰的な問いがある。先ほど筆者は、本展の参加作家たちの実践に、「ある一定の行為のミニマルな反復を自らに課し、その反復における差異化を身体ごと受けとめる姿勢」を見出したと書いたが、これはそのまま本展のキュレトリアルにも当てはまる。本展は、キュレーターが建てつけた構造を、参加作家や鑑賞者がその内部から踏み越えて溢れ出す不定形の実体を展覧会とせよ、といったタイプのものよりは、それぞれがそれぞれのリズムを奏でながらも最小公倍数的に一致を見せるタイプのものだ。

 私たちは互いに異なる思いを持って言葉を紡ぐ。同じ言葉であったとしても、そこでの各自の使い方があまりに異なっておりうまく議論が展開しないということは往往にしてある。本展においても例示されているように、暴力という語はあまりにレンジが広い。「超暴力」なる造語(に紐つく本展)の可能性とは、その広域かつ透明な語に、ある具体的な場を与えることにある。できるだけ多様で複数的な可能性を生み出すことと、にもかかわらずの1回きりの生、ひとつだけの身体という条件をギリギリのところで両立させる地点。

菊池和晃がパフォーマンス作品《muscle》(2019)発表時に用いたペンキの跡と、記録としてパフォーマンス時の息遣いを流すためのスピーカー 撮影=鈴木悠生

​ ここで展覧会の問いをより大きな布置へと移してみたい。イタリアの政治哲学者、アドリアーナ・カヴァレーロは、2008年(イタリア語の原著は07年)に出版した『ホロリズム 現代の暴力に名を与える』において、「ホロリズム horrorism」という新語を提案している。「テロリズム terrorism」という表現は、女性による自爆テロなどの行為を表現するのには不十分であると彼女は記す。語源を遡れば、「terrorの領域は、震える身体において明示されるような、恐怖のフィジカルな経験によって特徴づけられる」が、「ホロリズムとは、死それ自体を超出した、ある特有の暴力の形式によって特徴づけられている」。「horrorは唯一性を殺すことと関わっており、言い換えれば、ホラーの本質は、存在論的な物質を攻撃することにある。ホラーにおける攻撃は、独自の存在を余分な存在の塊へと変容させながら、人々から彼/女ら固有の死を奪い去る」(*1)。

 肉片と化して弾け飛ぶ妊婦のテロリストの身体という現実を前にして、展覧会とパフォーマンスとそこで発現している暴力への問いは、矮小に映るし実際矮小ではあるだろう。がゆえに、アートが現実に追いつけないことを確かめるような展覧会は無益であるし、そこでの切実さの濃度を問題化しても意味をなさない。私たちが確認できることは、この現実(この世)において、これらの「暴力」は確かにつながっているという点である。

 問いはしたがって「どのようにつながっているのか」という点に賭けられる。パフォーマンスの生産と受容、瞬間性(パフォーマンス)と永遠性(記録)、アーティストとキュレーターといった自らの主体編成に寄与するような弁証法的他者とのポリティクス以上に、「主体にとってよりラディカルな中断を成しているのは、このような敵対性よりも、自らが行為もコミュニケーションもできない無力な「モノ」であることを意識させられる瞬間のほうではないか」(*2)。

 「私たち」は「私たち以外」を排除することを通してしか「私たち」を仮構できない、という開き直りに対して、「私たちはつねにラディカルに中断される」という次元を衝突させることに「超暴力」という名を与えるとどうなるだろうか。

*1ーーAdriana Cavarero, “Horrorism Naming Contemporary Violence”, Columbia University Press, 2008
*2ーー大竹弘二『公開性の根源 秘密政治の系譜学』(太田出版、2018)

編集部

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