月評第121回 にんレスとパータン
Chim↑Pomの歌舞伎町
「にんげんレストラン」は新宿、歌舞伎町の雑居ビルにChim↑Pomが開いた2週間限定のレストラン。歌舞伎町と聞いて、なにを思い浮かべるだろう。東京でも筆頭の風紀が乱れた悪評判の一角だろうか。
しかし現在の歌舞伎町は、2020年の東京五輪での「おもてなし」に向けて急激に様変わりしつつある。少し前までわけ知る者しか歩いていなかったような裏路地も、いまでは外国人観光客が群れをなしている。その象徴としてあげられるのが、観光の目玉となっているロボットレストランだろう。
実は同店を運営するのと同じ会社の買い取りにより、会場となるこのビルの取り壊しも決まったのだという。そのビルを前もって壊しながら、にんげんレストランは開店した。だからにんげんレストランに明日はない。ロボットによって奪われるにんげんの明日? しかし、それは本当だろうか。
にんげんレストランでは、至るところでChim↑Pomならではの仕掛けを見ることができる。けれども、やはり主役は食事だ。なかでも最大のウリは、世界の死刑囚たちが最後に望んだ食事を忠実に再現した特別メニューだろう。
にんげんがにんげんであることを終えるとき、かれらが最後に胃袋に収めることを決めた食べ物を、明日なきビルが取り壊される前に客に出す。しかし、この最後の食事は明日を生きるためではない。最後の最後に与えられたにんげんへの小さな希望だ。その最後の希望の最後の一口を食べ終えた後、かれらはいったいなにを感じただろう。
そんな、最後の希望の後、すぐにやってくる本当の最期の時とのあいだに挟まる、よく意味のわからない時の経過。にんげんレストランは、この意味の掴みにくい時間の所在を、限られた期間のなか、これ以上ないほど生き生きと活性化させて見せた。たとえ、そのすべての営みが、やがてこのビルが排出するであろう(いまはまだかろうじてゴミではない)ゴミを原材料にするのだとしても。いや、ゴミだからこそ、にんげんなのかもしれない。ロボットが出すのは、しょせん再利用が可能な資源ばかりだろう。
にんげんレストランの会期中、周囲では飛び降りが相次いだ。わかっているだけで10月中に7人ものにんげんが会場近くのビルから飛び降りた。いかに歌舞伎町といえども、そうそうあることではない。いったいいま、歌舞伎町でなにが起きているのか。にんげんが排除されて、命よりも大事な別のなにかが優先されつつあるのだろうか。みずからの存在を絶つにんげんは、自分のことを社会から必要とされないゴミとでも考えたのだろうか。それとも、命を絶ち、みずから社会の外へと押し出すことで、かろうじてにんげんとしての最後の存在を示そうとしたのだろうか。
Chim↑Pomがこのビルの屋上から1階の天井までを切り抜いてつくった穴《第七トーア》は、そこから落とされるゴミの行く末が、にんげんの手でもう一度、命を吹き込まれ、ゴミのまま生き返ることを想定してつくられている。もしかすると、社会というシステムから不要とされたにんげんこそ、より純粋なにんげんなのかもしれない。その意味で「にんげんレストラン」は、ゴミのようなにんげんからもう一度にんげんを生み出し、にんげんとしての純度がより高まったかれらと、このビルの「最後の晩餐」をともにする試みなのかもしれない。
パープルームの相模原
他方、相模原は歌舞伎町とは似ても似つかない。私は大学へ向かうのに横浜線で隣駅にあたる橋本駅を利用している。だから何度となく相模原駅を通過こそしても、その外へ歩み出すことはついぞなかった。それが「パープルタウンへおいでよ」の声に誘われるまま、気付けば宵闇が近づく肌寒い相模原の街並みを歩いていた。
そんな街のなか、会場はいくつもに分かれて散らばっている。駅近くのパープルーム予備校生たちが住んでいる部屋については、駅に待機しているパープルーム予備校生が案内してくれる。問題なのはその後だ。
本部のパープルーム予備校は駅からかなりの距離がある。しかも、そこへ向かう道はひたすらまっすぐなのである。やることといったら、せいぜいが街並みを眺めるくらいだ。なるほど相模原はこのような原っぱだったか。米軍基地が滑走路をつくるのも無理はない。それがいまでは立派な政令指定都市だ。リニアモーターカーの駅ができるという話もある。きっと多くの美大生も住んでいるに違いない。学生の街は昔から雑多と決まっている。それがどうしてこんなに間延びしているのか。目立った店も大型のチェーンばかりで、こじんまりとした味わいの店がほとんどない……などなど。
しかし、にもかかわらず、僕はこの「パープルタウン」に、いまの歌舞伎町とどこか通じるものを感じた。歌舞伎町の密度を可能なかぎり薄く平たく延ばし、どこまでも続く地面にぺったりと貼りつけたら、もしかしたらこんな街になるのではないか。
それはつまり、広さや密度とは関係なく、いつでもどこでもロボットとにんげんがせめぎ合っているということだ。しかし、ここパープルタウンでのせめぎ合いは、歌舞伎町のようには可視化されていない。そこかしこににんげんはいる。だが、私を案内してくれたパープルーム予備校生は、自分の人間力(にんげん力?)を「立てる」ため、語尾に「〜なり」とつけることを自分に課していた。
しかし、そのわりには不徹底で、たまに思い出したように「〜なり」とつける。それでも全体の3割くらいは達していたかもしれない。この不徹底さに、にんげんとしてのパープルーム予備校生を見た気がしたのだ。もしもプログラミングされたロボットのようにすべからく語尾に「〜なり」がつき、「キャラ立ち」していたら、恐れをなして逃げ出していただろう。
どこかが不徹底ということ。どこまでが作為かが当事者にも見るものにもわからないということ。どの会場にも、どの作品にも、そして人にも街にも、そうした「にんげん」にしか
パープルタウンと聞いて私は、まず八神純子の歌う同名の曲を、次にプリンスの「パープル・レイン」を、そして最後に、鳥取県倉吉市のショッピングセンター「パープルタウン」で4年前、若い女性が果物ナイフで刺された事件があったのを思い出した(このパープルタウンは通称「パータン」というらしい)。
相模原でも2年前、障害者