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未来に向けた履歴現象。奥脇嵩大評「ヒスロム 仮設するヒト」展

人々との交流を通して風景や土地を知る「フィールドプレイ」という手法を用いて、10年にわたって活動を続けるヒスロム。他者との関係性のなかから生まれたプロジェクトの数々を、せんだいメディアテークの空間全体を使ったインスタレーションのかたちで表した。同展を通して、即座には理解しがたい彼らの活動の本質を、ヒスロムのプロジェクトを企画したことのある青森県立美術館学芸員の奥脇嵩大が読みとく。

文=奥脇嵩大

せんだいメディアテークの会場風景 写真提供(すべて)=内堀義之

履歴するユートピア、あるいは未来の最善説

 2001年「美術や映像文化の活動拠点であると同時に、すべての人々がさまざまなメディアを通じて自由に情報のやりとりを行い、使いこなせるようにお手伝いする公共施設」(HPより)として誕生した、せんだいメディアテーク。収蔵作品を持たず、従って「一時的に在る」ことに、自主企画展や「3がつ11にちをわすれないためにセンター」等のプロジェクトを通じて向き合い続ける本施設が今回、自らの本性とも言える仮設性と対峙する相方として、3人からなるアーティストコレクティブのhyslom(以下、ヒスロム)を選び、「ヒスロム 仮設するヒト」を開催することになった(*1)。本稿は同個展のレビューとして、展覧会が示したと思われる、未来のための最善説的態度について考察するものである。

重荷を地面に投げ捨てたいと思いながら、それをずっと担ぎつづけたいとも思うなんて、もう愚劣の極みではありませんか?(ヴォルテール『カンディード』*2)

 フランス近代の作家・哲学者のヴォルテール(1694〜1778)の著作に『カンディード』(1759)という短編小説がある。貴族の青年カンディードによる苦難の旅を描いた本作においてヴォルテールは、1755年11月1日、ヨーロッパを象徴する大都市のひとつであるポルトガルのリスボンを襲った巨大地震のエピソードを挿入し、神への信頼に基づく「この世界は全て正しく善である」とする最善説への懐疑を「重荷」という語に込めて描写した。同作は地震直後に書かれた『リスボン大震災に寄せる詩』とともに、啓蒙主義に基づく西洋近代社会や自立した人間像構築のための礎石として、私たちが危機の時代社会と生きるための、いまなお重要な指標のひとつである。

  展示風景より、ヒスロムが通う造成地で出会った動物(剥製)
ぼくたちはいま、もうひとつ別の世界に向かっている。(同前)

 2018年の日本。リスボン大震災から250年以上が経ち、その発生とほぼ同月同日に展覧会はオープンした。会場は仮設の床で地面全体が上がり、鑑賞者はその上下を行ったり来たりする導線のもと、ヒスロムのこれまでのプロジェクトの数々を体感するような構成である。2009年の結成以来、ヒスロムは場所を通じた他者との出会いをもとにした遊び「フィールドプレイ」を各地で実践してきた。そこから生まれたプロジェクトをアーカイブ/インスタレーションとして紹介する本展において、メインの展示物となるのは、プロジェクトの過程で制作された映像、写真、オブジェの数々である(*3)。作品とも記録物とも呼びがたいモノたちに圧倒されつつ会場をうろうろするうち、ふと東日本大震災の被災地における無尽蔵の瓦礫と遺失物保管所のイメージが重量感を伴って被さり、動揺を覚える。

 居並ぶ動物たちの目が底知れず黒い。いま生まれつつあるモノもやがては未来の廃墟の一部でしかないのかーー不穏な連想が脳裏をよぎる。しかしそうしたモノたちの大もとであるプロジェクトが継続しており、従っていまこの瞬間も未来に向けて作用し続けるものであることに思い至ったとき、筆者にとって本展は、絶望転じて希望を汲み出しうる唯一の足がかりとして見なされるようになった。

仮設の床の上下に現れるのは彼らが通う造成地を模した構造。写真はプロジェクト《美整物》(2014〜)断片としての屋根の一部、彼らが「昆虫さん」との出会いから見出した「よい木」をめぐるプロジェクト《Good Wood Family》(2013〜)

 ヒスロムは場所で出会った様々なモノーー木、自身が「昆虫さん」と呼ぶ昆虫採集の得意なおじさん、鳩、石などーーに敬意を払い、できるかぎり得心がいくまで彼らと関係し続ける。そこでは多くの人が惹かれ合い、時に軋轢のなかで混ざり合い、プロジェクトというかたちで表象されることで、新たな他者との関係を生む。

 各プロジェクトがフラットに紹介される本展は、プロジェクトの連鎖を立体視的に見せるものであり、そこにはヒスロムの名にも由来する「モノやシステムの状態が現在加えられている力だけでなく、過去に加わった力にも依存して変化」する履歴現象(ヒステリシス)としての風景が立ち上がる。彼らが見せてくれるそれらは、自己と他者が交わりながら異化することで生まれる無数の「未来になりつつある現在」(J.クリフォード)の先の変化、すなわち、つねに私たちが立ち上げるべき希望の先触れとして機能する。

 本展はアーカイブという本質的に過去を志向するものでありつつ、ヒスロムのそれであることで、かえって未来に向けて開かれる性質を持つように思われる。ヒスロムは圧倒的に未来であり、本質的に希望しかない。本展はせんだいメディアテークによる、人と社会と地域をつなぐメディウムとしてのミュージアムの存在論的転回の実践であり、私たちが絶望と希望のあいだを右往左往することそれ自体が、未来と向き合うための確かな一歩となりうることに気づく場でもあった。

手前に見える構造物は造成地の工作物の再現制作《リクリエイト》(2012〜)。彼らのフィールドプレイは場所の変化を身体で触知するパフォーミングアクション《Documentation of hysteresis》(2009〜)や各種プロジェクトとして派生することが多いが、立体物としても制作される

 

中心部では船で海や川を探索するプロジェクト《船》(2015〜)映像と「よい木」を軸に、左舷・右舷に「鳩が翼を広げるように」展示が構成される。その様子はより大きな構造体の気配を伝えるようでもある。右手中程には「Documentation of hysteresis」をもとに制作されたオブジェ《Big one-パイプ》(2012〜)
「ぼくにわかっていることは」と、カンディードは言った。「ひとは自分の畑を耕さねばならない、ということ」。(同前)

 旅の最後に行き着いた場所で、カンディードは恋人や旅の同行者らと共同で生活しながら農耕の日々を送るようになる。いま私たちがカンディードを繰り返したところで、彼の「畑」のような希望的関係の場=ユートピアはもはや見出しえないだろう。しかし私たちには幸福なことに「4人目のヒスロム=仮設するヒトビト」として関係し合う過程で、カンディードの「畑」を未来に向けて未来に向けて投企(プロジェクト)する余地はまだ辛うじて残されているようにも思われる。

 繰り返される人と社会と自然の時間が交差する瞬間を引き延ばし、そうして仮説された時のなかに、生きるべきユートピアを幻視し続けること。あるいはともに汚れた土地に全身をつっこんで遊び、何が生じるかもわからない種を見つけ、播き、収穫を夢みること。本展が示してくれた履歴現象のなかに、筆者は廃墟の穴の先でつなぐべき未来の最善があると信じている。

展示初日に行われたギャラリーツアーの様子

*1――せんだいメディアテークの仮設性については、清水建人「コンニチのメディアテークとインスタレーション」『コンニチハ技術トシテノ美術』(T&M Projects、2018)に詳しい。なお清水氏は本展企画者でもある。
*2――ヴォルテール『カンディード』(斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2015)
*3――各プロジェクト詳細についてはチラシにて参照可能。
 

編集部

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