副田一穂 年間月評第4回 岸本清子「Retrospective」展 1980年代の怪獣襲来
1960年にネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに参加したのち、69年から76年までの活動休止期間を経て、79年の乳癌発症を機に<ruby> 岸本清子 <rt>きしもとさやこ</rt></ruby>は名古屋へ帰郷した。術後も衰えることのない岸本の活動は、多岐にわたる(辻説法、ロック歌舞伎スーパー一座の宣伝美術、名古屋市美術館建設反対運動、雑民党からの参院選出馬、癌再発後の病床でのドローイング等々)。60年代の作品は現存せず、80年代の活動は広範でとらえどころがない。88年の死去後、ネオ・ダダの「紅一点」(実際には第3回展に平岡弘子が参加している)という代名詞だけを残して、岸本の名は現代美術の世界からいったん忘却された。
その後、フェミニズム・アートの文脈でネオ・ダダ時代の活動が再評価され、80年代の作品からは最大約20mに及ぶ長大なロールキャンバスによる「絵巻物」シリーズを金沢21世紀美術館と宮城県美術館、名古屋市美術館が収蔵、次いで画集も刊行され一定の評価を得た。ところが地元・名古屋での本格的な紹介は、90年の遺作展以来なされてこなかった。岸本の晩年の活動を同時代的に評価した数少ない理解者のひとり、岩田信市もこの8月に鬼籍に入ったいま、本展は80年代の岸本の活動を改めて通観するための重要な足がかりとなる。
「絵巻物」シリーズに関連する小品、戦前の映画スチルを引き写した《男と女》、眼光鋭い(というより文字通り目から雷光を発する)《信長》や《役者絵》、病床で描かれた速描きのドローイング。これらの作品を相互に緊密に結ぶ隠れた理路を探るには、遺されたテキスト(詩、アジ文、政見放送等)はあまりに支離滅裂で独善に過ぎるかもしれない。むしろそのような理路への期待をひとまず放棄してみることで、岸本の同時代的な文脈への鋭敏な反応や意図せざる共振が浮かび上がってくる。
《男と女》における往年の銀幕スターたちの姿は、フランシス・ピカビアが第二次大戦中に描いたポルノ雑誌のピンナップのシリーズを想起させる。批評的に黙殺されたこれらの作品は、デヴィッド・サーレやジュリアン・シュナーベルら、まさに80年代のニューペインティングの旗手たちによって評価された。
また「絵巻物」に連なる恐竜と蝶は、明らかに『ゴジラ』シリーズ(1954〜)や『モスラ』シリーズ(1961〜)を念頭に置いたモティーフだ(実際、恐竜の絵巻物は《怪獣文明》と名付けられている)。跋扈する赤猫、ゴリラ、昆虫、恐竜に自らを仮託した「絵巻物」シリーズは、近代崩壊以降の未来(21世紀)への予言でもあったが、たとえば83年に描かれた巨大なゴリラとの自己同一化の画面は、その翌年に連載が始まった諸星大二郎『西遊妖猿伝』と鳥山明『ドラゴンボール』(いずれも大猿の力を自らに宿す主人公の冒険活劇マンガ)と見事に同期している。奇しくも同じ84年、地球を守る英雄へと馴化していたゴジラは、再び破壊と恐怖の象徴へ原点回帰した。岸本の80年代は、サブカルとアート、古代と未来、文化と政治、人間と怪物の絶えざる往還の物語の中にあった。ただ、自らを「地獄の使者」と嘯いた岸本にも、この世とあの世だけは往還できないことが残念でならない。